題名でわかる通り、お遍路に行ってきました。
四国八十八箇所巡りとか四国巡礼といった様々な呼び方があるけど、要は四国にある空海(弘法大師)に縁のある88箇所の寺院を巡礼するというもので、自分は歩き遍路、つまり歩きで四国を回るという形を選んだ。
元々、熊野古道のような巡礼の路であるお遍路を歩きたいという願望はあったんだけど、旅に出るきっかけは正直、3月の祖母の死だと思う。
神道への信仰心というとあれだけど、単純に日本神話なんかが好きという理由で、神社へお参りするのは好きなんだけど、それ以外の宗教へは敬意を払ってないというわけではなくても、最低限の知識があるだけといった感じで、仏教に対してもそれは同じだった。
でもほとんどの日本人がそうするように仏教式の葬儀を通して、祖母の死に向き合うことになって、自然と仏教に触れる時間ができた。
自分にとって祖母はただの祖母と孫という関係ではなく、育ての親でもあったから、死を実感すれば、悲しみの重みに耐えられなくなって、寂しくなれば、大好きだった祖母は今どこにいるんだろうという疑問を自然と抱いた。
父方の家の宗派は浄土真宗(本願寺派)だったから、死と共に阿弥陀仏に極楽浄土に迎え入れられているわけで、葬儀自体は成仏を祈る供養(お別れ)ではなく、人は皆死ねば仏となるということ、つまりあの世での再会を誓うような形で、祖母ではなく阿弥陀如来への報謝の儀式として行われたということになる。
それでは物足りないというと変だけど、特別な存在だったからこそ、お世話になった祖母に対して、自分なりの形で冥福を祈り、供養の旅にしようと決めた。
悲しくなるからと極力思い出さないように試みていたけど、ちゃんと思い出しながら歩こうと。改めて死に向き合うことになるけど、でも必要な時間だと。
とまあ、いきなり重くなっちゃったけど、きっとそういう感じです。旅の動機は。
言わずと知れた弘法大師空海は真言宗の開祖。天台宗開祖の最澄と並び、現在もなお続く日本仏教の流れを作った僧。
遍路というのはその弘法大師が修行の地として選んだ四国の八十八ヶ所の霊場を巡礼すること。
古代から四国は修験者にとって修行の道ではあったらしいけど、大師の足跡を修行僧達が辿り始めたのが遍路の原型らしい。
国(県)ごとに段階的に違った道場が定められているから、予習がてら調べたことをここにも書いておく。(ちなみにこの0日目の記事はほとんど出発前に書いてたりする)
1番から23番が阿波国(徳島)の霊場で「発心の道場」
発心とは悟りを求め、仏教への帰依、仏道(菩薩道)を歩み始めるという決心をすること。遍路の旅に出てみようと思い立つのも発心らしい。
24番から39番が土佐国(高知)の霊場で「修行の道場」
札所の数は一番少ないもの、距離が最も長く、険しい山道等も多いため修行の道場。肉体的にも精神的にも善行を積まなければいけない。
40番から65番が伊予国(愛媛)の霊場で「菩提の道場」
菩提というのは道であり、知であり、覚である。あらゆる煩悩を断ち切り、不生不滅の理を悟って、初めて得る仏果とのこと。発心、修行の道場を経たことで菩提に辿り着ける。
66番から88番が讃岐国(香川)の霊場で「涅槃の道場」
様々な苦を絶ち、一切の煩悩を滅ぼし、ようやく辿り着く解脱の境地が涅槃。一番から八十八番まで巡り終えることで無事結願となる。
歴史も古く、面積も広い四国一周の旅は全長約1200km。
独自の文化も沢山ある。順番に巡ることを順打ちと言うだとか、お接待とかそういう類のものがあるんだけど、とても全部は書き切れないから少しだけ書く。
多分今年最も注目されているのは逆打ち。閏年に逆打ち(逆向きに札所を回ること)をすると三倍の功徳があるとされているらしい。
これは逆向きに歩くことで大師と出会いやすくなるからというのが理由みたいだけど、でも自分は初めての遍路だし、発心~涅槃の段階も含めて、数字があるなら1から回ってみたい。いや、ご利益は特に求めていない。ということで1から数字順に回る順打ちにすることにした。(正直、熊野古道で逆向きに歩いて標識等見つけにくかったという苦い経験の影響もあった)
四国を一周するように88の霊場は開かれている。ちなみに88というのは煩悩の数らしく、その煩悩を歩きながら一つ一つ取り除いていくことで、願いが叶うとされている。
旅の目的は人それぞれで、願いを叶えたい人もいれば、懺悔目的や、病気治癒への祈りだったり、仏教徒としての信仰心だったり、リフレッシュ・癒やしを求めてだったりと、本当に様々。
昔ながらの歩きというスタイルだけでなく、回り方も今ではいろいろとあって、自転車やバイク、車、観光バスと、言ってしまえばもう何でもありな感じ。
自分は何を求めているのかを考えると、祖母のことを考えれば先祖への供養に当てはまるのかなとは思うけど、前述の宗派の違いからして、はっきりさせようとすると正直難しかった。(今となっては宗派のあれこれなんて気にすることはなかったんだけど)
自分探しの旅として自分を見つめてもいかに自分が空っぽかというのに気付くだけだし、そもそもそういうのは10代の頃に済ませたと思っているし。
日常で様々な煩悩に苦しめられることは当然あるから、煩悩が捨てられたならそれはめでたいけど、でも旅が終わればまた煩悩なんて戻ってくると思うし。(浄土真宗からすると煩悩は捨てるものではなく向き合うものらしい。そっちの方がしっくりくるっちゃくる。信心が足りなくて捨てられないなら本末転倒だけど)
これといった願い事がないほぼ無欲の状態ということは、修行とするには適しているのかなとも思ったけど、よくわからない状態というか、曖昧で、そう深くは望んでいないようで、逆に多くを望んでいるような気もするという邪念に大敗北を喫していませんか?という出発前だった。
でも今考えてみれば、願い事がなかったということは、歩いてみたいという願望以外はすべて供養だったんだろうなと思う。
祖母はいろいろなところに旅行してはいたけど、四国には縁がなかったのか行ってなくて、生前行きたいと言っていたことは覚えていた。
最も行きたかった場所であるこんぴらさんは入院中に、「元気になりますように」とお守りを買いに行ったりはしたけど、でも結局四国へ行くという願いは叶わなかった。
だから供養や祈りの旅と位置付けでも、そんな重たい感じは自分の中にはなく、祖母と一緒に四国を旅するといった気持ちで歩いた。(そういう気持ちだったから、昔、祖母から貰った腕時計も持って行った。常に一緒なんだと感じられるように)
道中でいかにも普通っぽくてありきたりな願いが生まれる可能性はあったけど、辛さを感じた次の瞬間には、歩き切るということを唯一の願いにしていたのだと思う。
ちなみに遍路の旅で使う笠には「同行二人(どうぎょうににん)」と書かれていて、これはつまり弘法大師と常にともにあるという意味。
また杖は大師の化身とされていて、白衣は元々道中で行き倒れてもそのまま葬れるための死装束でもあったらしい。
1200kmあるということは1日30km歩いたとしても40日は掛かることになる。どうせ過酷な修行の道なら出来る限りとことんやろうということで野宿もしていくスタイルで歩くことにした。(もちろん毎日宿に泊まっていたら宿代が馬鹿にならないというのもある)
四国遍路は他の巡礼路と比べ、死の匂いが香るのは間違いない。そしてどこか暗くて神秘的なイメージ。
出発前は、多分大丈夫だろうと思いつつ、言い知れぬ不安はあった。観光という気分にはなれなかったし、どんな旅になるのかもまったくわからない状態だったから。
日本人にとって、神道というものは意識的な信仰というよりは、無意識的な自然(支配出来ない絶対的な力)への崇敬や畏怖といった感じで、良い意味で宗教の匂いがしないと個人的には思う。教義や教典もないし、一神教とは違い神社ごとに御祭神もまったく違ったりするし。
でも仏教は、海の向こうからやって来て、古代から多くの日本人の信仰を集めてきた。神道(日本神話)における神の子孫である天皇家ですら仏の慈悲に縋ってきた歴史がある。また神仏習合という流れも約150年前まで続いていた。
そういった意味でこの国にとって、我々の先祖にとって、大きな意味を持ってきた仏教の旅をするということで、やはり仏教に対して敬意を払い、最低限の心得や作法を守るのは義務だということは当然出発前から感じていた。
仏教への信仰心が僧侶はともかく、在家信者のそれにも到底届かないものだとしても、寺院を巡るわけだから、旅の間は仏教に身を置き、仏教での決まり事をできるだけ守ろう。
ということでまたここに予習内容を記しておく。
●四国遍路の三信条
四国遍路の最中に信じる3つの条項。
一、摂取不捨のご誓願を信じ、同行二人の信仰に励む。
「悩めるもの、苦しむもの、最後の一人まで救い尽くすであろう」という弘法大師のお言葉を信じ、巡礼中は常に「大師様」とともに寝食をし、常に行いを見守られているという思いで参ること。
二、何事も修行と心得て、愚痴、妄言を慎む。
遍路の道中で経験することは全て修行。苦しいときこそ弘法大師から与えられた試練と捉え、不平不満を言わず、虚言を吐かない。
三、現世利益の霊験を信じ、八十八使の煩悩の波を静める。
現世利益とは富や地位といった欲を満たすことではなく、この世で受ける仏の恵みのこと。仏の恵みを信じ、88の煩悩を消し去り、心の平穏を保つ。
●十善戒
遍路が守るべき戒律。(解釈次第で変わると思うけど、ここではかなり簡素化した)
・不殺生 生き物を殺さない。
・不偸盗 盗みを働かない。
・不邪淫 不倫をしない。
・不妄語 嘘をつかない。
・不綺語 余計なことを話さない。
・不悪口 悪口を言わない。
・不両舌 二枚舌を使わない。
・不慳貪 欲張らない。
・不瞋恚 怒らない。
・不邪見 間違った考えを持たない。
遍路では基本的に上の二つしか挙げられないけど、自分はこれに在家信者が守るべきとされる五戒も含めることにした。どれも基本的な戒めだから十善戒に被っているものがほとんど。
(5番目の不飲酒戒があるから遍路では五戒は挙げられないという噂もある。旅館が儲からないから、みたいな)
●五戒
・不殺生戒 生き物を殺してはいけない。
・不偸盗戒 他人の物を盗んではいけない。
・不邪淫戒 不道徳な性行為(不倫や強姦)を行ってはいけない。
・不妄語戒 嘘をついてはいけない。
・不飲酒戒 酒を飲んではいけない。
他に八斎戒という戒律もあって、それはこの五戒に、3番目の不邪淫戒を不淫戒(あらゆる性行為を行ってはいけない)に替えて、更に三つ加えたもの。
7番目の音楽や演劇を鑑賞せず、香水や宝飾品で身を飾らない。8番目の天蓋付きの寝具で寝ないというのは守れる気がしたんだけど、
6番目の正午以降は食事をしないを守っていたら確実に道中で死ねるなと感じ、八斎戒を取り入れるのは止めることにした。
この十善戒と五戒をどの程度の覚悟で守ろうとしていたのだろうと旅を終えた今では考える。
戒律を守ろうとしていた姿勢は良いと思う。そして自分が戒律を破る瞬間の心境、自分の甘さや仏教への申し訳無さを感じられたこともそれらは自分にとって得るものではあった。
ここまででもう随分と長くなってしまったけど、どうせ自分でもうんざりするほどあれこれ書くことになるから、後は追々で。
題名を歩き遍路の旅にして、このまま書いていくつもりだけど、歩き遍路の旅って、うん、まあ、いいや。
出発前の何がなんだかよくわからないごちゃごちゃした状態で書いていた文を、帰宅後のなんだかまだいろいろと落ち着かない状態でまとめているからなかなかなカオスっぷり。
とりあえずまあ、初日に参ります。
合掌。