もう一度、末宗について

以前、末宗という名字の由来と題した記事を投稿し、情報を持っている方がいたらメッセージをくださいと末尾に書いていたんだけど、
先日、母が末宗の古い家の出という方からメールを頂いて、そこに記載されていた貴重な、あまりに貴重な情報を目にした時、まるで脳天を撃ち抜かれるような衝撃や、ようやく真相に辿り着けたという喜びがあった。
笑えるくらい胸が躍った要因は、自分がほとんど0から立てていた仮説・予想が大体当たっていて、その答え合わせのような感覚もあったからかな。またこんな風になっていたらいいのにという願望にも結びついていて、遠い過去から存在しているいくつもの点と現在の自分までの点が一本線で繋がるようだった。
なんだか冒頭から興奮しすぎだろと思われそうだけど、記事自体も長くなるけれど、これが答えでいいかと。末宗への系譜・歴史です。

とある神社・現地を訪れて記事にしようと考えていたが、もう今まとめちゃおう。きっとこの答えを探している人もいるだろうし、歴史を誰かに伝える・語り継ぐというのはもはや自分の義務でもある気がするし。
どうやら充分すぎるほど遡れるらしい。自分のこの変わった名字には何かがあるはずだとずっと思っていたけど、なんだよ正しい由緒があるじゃないかと感じているのは、安堵であり、以前も感じた温もりでもあるのかな。


始皇帝

弓月君

秦氏

惟宗氏

(宗氏)

末宗


始皇帝

言わずと知れた中華を初めて統一した皇帝だが、この辺りから始めるとファンタジー感が拭えないので、参考程度に。
現在の中国の大半を構成する漢民族ではなく、紅毛碧眼説もある嬴政。ペルシャ人やユダヤ人の血統にあるのかもしれない。

弓月君

始皇帝の三世直系、また秦氏の祖とされる弓月君。(不老不死の霊薬を探して東方を旅した徐福を祖とする説もある)
アイヌ以外は大陸から渡ってきたとされる日本人だが、応神天皇の時代に彼が率いてきた3~4万人「弓月君の民」の中にルーツを持つ日本人も多いはず。
ちなみに弓月=三日月はユダヤ人の象徴。極論すれば、イスラエル王国のダビデや失われた10支族に繋がる可能性も0%ではない。

秦氏

九州北部(豊前)を拠点に、全国へと広まっていた秦氏は、技術力・財力に優れ、特に文化面において日本に大きな貢献をしてきた氏族。
古代の鍛冶技術というのはシャーマン的要素も帯び、八幡神社や稲荷神社を創祀したのは秦氏。平安仏教を代表する空海や最澄とも縁が深い。
平安京(京都)を和気清麻呂等と協力して開拓・遷都したのもまた秦氏。その秦氏の多くは平安時代に惟宗氏を称するようになる。

ここで、なぜ天皇家が宇佐八幡宮を祖廟とし、国難の際に頼り続けてきたのかを予想。
宇佐というのは秦氏の拠点。そして神功皇后の祖神である天之日矛(アメノヒボコ)の説話が残る地域は秦氏の居住地域と一致する。(天之日矛=秦氏ということ)
つまり、応神天皇以降の天皇は秦氏の血を引き、母方・神功皇后のルーツである宇佐は天皇家が最も尊ぶ地であった。(並ぶのはいわゆる父方の祖廟である伊勢神宮)
その地に祀られる神は、(宇佐氏の磐座信仰→)秦氏の氏神→皇室の祖神・八幡大神へと変わっていくが、御祭神が元の氏神の子孫になったというだけで、宇佐八幡宮の権威や本質的価値は変わらなかったのだろう。

…とそれっぽく予想はできるものの、弓月君は応神天皇の時代に渡ってきているのに、その母である神功皇后のルーツが秦氏とはこれいかに。古事記の通り、天之日矛=新羅王子ならば、彼が渡来してきたのはいつ頃なのか。
渡来人の集団を始祖神に象徴したのが天之日矛という説もあるので、弓月君より前に渡来していた人物を秦氏の祖とするのが妥当か。
三韓征伐後に神功皇后・応神天皇を頼って何万と海を渡ってきたというのは、親戚を当てにした民族大移動のようなものかな。当時の大陸人にとって最初期の秦氏はコロンブスであり、日本列島は新世界だったのかもしれない。

力を持ちながらも表舞台には立たず、御上に仕え続けてきた秦氏は、日本人らしさの原点とも言える。その「らしさ」は受け継がれ、末宗まで繋がっていく。

惟宗氏

秦氏の子孫で、明法道(律令学)を家業とし、著名な明法家も輩出した氏族。
日向国に土着した惟宗氏は島津氏となり、薩摩藩は近代日本を築き上げた。

惟宗の惟という字のツクリ「隹」は鳥を表す。鳥は古くは神の使いだと考えられ、鳥占いで神の神意を聞くことを「惟」と呼んでいたようなので、氏の起こりとしては秦氏のシャーマン的要素を色濃く引き継いだのが惟宗氏だとも考えられる。
ちなみに八幡神社の神使は鳩。その辺りとも無関係ではないだろう。

おそらく豊前付近に残り続けていた惟宗氏が宗氏へと変わっていく。

(宗氏)

惟宗氏が略され宗氏へ。
太宰府の惟宗氏が武士化し、15世紀初頭に北九州から対馬へと移った、対馬の宗氏が最も有名かな。
末宗を称するようになるのは宇佐神宮関係者の宗氏だったらしい。長い歴史を経て、ようやく末宗へと繋がる。

(※惟宗氏から宗氏を経由せずに末宗へと変わった可能性あり)

末宗

宇佐神宮の近くに和気という地域があり、その地に土着していた惟宗氏(or宗氏)が末宗となった。おそらくこの頃にはもう氏姓制度は名字へと変遷していただろう。
秦氏の拠点がそもそも豊前だったわけだから、「末」が持つ意味は本当に、直系や末裔のそれと捉えていいかもしれない。
1500年以上の時が経っても、八幡大神を祀る宇佐神宮、その御膝元に残り続け、神宮に仕え続けてきた氏族、それが末宗。

神功皇后や応神天皇にも繋がるであろう秦氏の血を引いている氏族でした、で締めても良さそうだが、その先も歴史は続く。
次は家紋の観点から語っていく。

末宗の本家とされる家紋は「丸に十字」で、島津氏と同じ。これは惟宗流にあることを示すもの。
しかし、かつての分家は「山桜」を使用していたらしい。惟宗からの関連性が見出せないが、その理由はきっと和気清麻呂にある。山桜は和気清麻呂を祀る和気神社の神紋。
和気清麻呂といえば、宇佐八幡神託事件で皇室・日本国を救った英雄。その清麻呂が滞在していたのが宇佐の和気で、後の地名の由来にもなっている。そしてその地に暮らしていたのが宇佐宮神官でもあった末宗(当時はまだ秦氏、もしくは惟宗氏か)。天皇が遣わした使者である彼の接待を受け持つことになった。
証拠となる文章が存在するわけではないので、先祖からの口伝・家紋からの推測という形になるが、多分こういうことだと思う。

“宇佐滞在中の和気清麻呂と、彼をお世話していた末宗の娘が親密な関係となり、子を宿したが、清麻呂はその後罪人とされてしまうため、その子を末宗で引き取り、後に分家の家長とした”

垂仁天皇(遡れば神代)を先祖とする和気の血筋として尊ばれていたのだろう。分家ながら本家と変わらない同格扱いだったらしく、その二家で互いに養子縁組や婚姻も繰り返したことで、血も混ざり合っていったとのこと。
つまり、秦氏の血を引くだけでなく、和気清麻呂の子孫でもあるのが末宗ということになる。
九州の次に中国地方に末宗が多いのは、別の出自と予想していたけれど、末宗の一部が、ルーツである岡山県和気町付近に戻ったのを縁としているかもしれない。(和気側が呼び戻した可能性も)
だが、前の記事でも書いた通り、広島にあった中津藩の飛領等が関係している可能性もある。
というのも、その後の末宗は、宇佐神宮だけでなく、大内氏や大友氏、江戸時代になると中津藩(奥平家)に仕えたりという時期を経て、今に至るから。

宇佐神宮の祭祀は元は秦氏・辛島氏が執り行っていたが、徐々に宇佐氏が全権を掌握していくことになるので、令和の現在、末宗姓で宇佐神宮の神職に就いている者はいないはず。(親戚に宮司はいるんだけど、それは末宗ではなく祖母の血縁)
だがかつては宇佐八幡の惟宗として、同じ惟宗の島津氏や薩摩松元氏等とは交流関係があり、大正や昭和初期頃までは婚姻も行われていた模様。
その惟宗関連で、鵜戸神宮や榎原神社が縁のある神社になるみたい。鵜戸神宮はあるけど、榎原神社は行ったことがないな。いつか行ってみたい。

とまあ、その(天皇とも始皇帝とも繋がる?)血筋の良さ・正統性はきっと末宗自身の誇りでもあったのだろう。故に、その血・一族を存続させるために近い家同士で婚姻を繰り返し、結果的に血が濃くなったことで、早世が多かったり、天才や気○いがよく出る家系なんだとか。言われてみれば、思い当たる節が、なくはない…。
でも今はもう安全かな。良いことか悪いことか、末宗も散り散りになり、和気に残る家も少なくなった。当然危険性も認知されただろうしね。そうした交配は皇族も通った道でもある。

ちなみに書家の親戚が探していた和気の末宗神社(?)は、 末宗家が保護している神社ということで、「末宗(さんの)神社」が真相。金刀比羅神社がそれらしい。
元々の氏神を祀る巨大な宇佐八幡宮は近くにあるわけだから、こちらの(ネットの海にすら情報がほぼない)小さな神社は、より身近な祖先を祀る「末宗の氏社」的意味合いを持つんじゃないかと予想している。
この神社が存在する場所こそが、ルーツの地そのものかもしれない。古から残るものなら歴史的価値も高いけれど、その答えを知っている人はもうこの世に一人もいない気がする。
でもそんな大層な価値を持たずとも、起こりがどうであろうとも、末宗の姓氏を持つ自分が祖先を想い、手を合わすには、最もふさわしい場所なんだと思う。いずれ訪ねることになるだろう。


ここからは若干ファミリーヒストリーっぽいというか、更に掘り下げて、自分の家について。

秦氏や和気清麻呂由来の造り手としての血が騒ぐのか、末宗には建設関連の会社を経営している家がいくつかあり、自分の家もそうだった。
高祖父の代で和気を離れ、駅館川を越え、柳ヶ浦に土着したので、柳ヶ浦の末宗家とでも呼んでおこうか。
大戦後に宇佐海軍航空隊の基地跡を整地・開墾したのが会社設立のきっかけ。曽祖父を初代社長とし、次代の祖父は大分県の建設業協会(旧土木建設協会)の二番手まで上り詰めたらしい。道半ばの60代で亡くなっちゃったけどね。
いや、いいや別にこういう話は。とりあえず、そういう家に生まれたということです。遥か昔から始まり、今これを書いている自分に繋がるというわけ。
うん、まあ、上記の情報を得た上で、家紋の「亀甲に違い鷹の羽」について改めて考えると、亀甲は長寿を願う縁起物であり、鷹は秦氏のシンボルでもあるんだよね。そうした意図があったかは不明だけど、結果として、繋がっている。

どんな言葉を選んでも、何度送っても、今回メールを送っていただいた方には感謝しきれない。
自分の周囲にはもう話を聞ける老人が一人も残っていなかったし、そういったルーツや歴史に興味を持った親世代の人間も0だったから、聞きよう・調べようがなかった。
本当にありがたい。新たな情報を教えてもらう度に、一枚一枚秘密の歴史本をめくっていくようで、自分のことを自分以外の方から教えてもらう不思議な感覚もあった。

しかしながら、まったくの無知から始めて、ここまで予想が当たっているとは思わなかったな。知らないことも当然多かったけど、なんなんだろうね。第六感とか、血が教えてくれた、みたいな表現をすると頭がおかしい奴だと思われるだろうけど、でも、なんかそんな気がした、としか説明できない。
宇佐出身だからか、GHQに消された勤王の忠臣、和気清麻呂は歴史上の人物で最も身近で憧れの存在だったから、和気にルーツがあるのなら何か繋がりがあればいいのに…と願っていたら、うん、めちゃくちゃ繋がってたね。岡山の和気にはずっと行きたいと思いながら行けてなかったけれど、この真相を待っていたのかも。(誰が)

今回のことをきっかけに、様々なことを調べ直し、改めて家系図を詳細に作り直していたら、涙が出そうになった。それは遥か昔の祖先を想ったからではなく、祖母を想って寂しくなったから。もっといろんな話を聞いておけばよかったなと。
なぜかはわからないが、これから先、もっと沢山の人や出来事に出逢いたくもなった。
そして、それなりに尊い血ならば、それに見合う何かを残したい、残さなければいけないとも思った。
無駄に襲い来る災難を乗り越え、人生を生きていくことだけでも必死で、まだ何も残せていないけれど、まだ時間はあると信じたい。

はい、こんな感じです。お付き合いいただきありがとうございました。
たとえ神武天皇や始皇帝やダビデ王の子孫だとしても、気軽に接してくださいね()
まあ、そうですね、ええ、キングダムでは蒙恬が一番好きです(なにこのオチ)


【追記】
再びメールを頂いて、船つなぎ石や海のこと完全に忘れてた…とやらかしに気付いたので、金刀比羅神社について付け足し。

日本後紀等に記述がある、道鏡に足を切られた状態の清麻呂が再び上陸した豊前国宇佐郡楉田村は多分後の和気村で、
平安海進の影響で当時はこの辺りまで海が続いていたようで、200mほど先にある神武天皇や神功皇后の伝承も残る柁鼻神社付近には、清麻呂公の船つなぎ石が現存している。
海の神様である金刀比羅神社を末宗の一族が大切に守り続けてきたというのは、 海を渡ってこの地へと辿り着いた、忠臣でありながらも不遇の身にあった和気清麻呂と、出迎えた秦氏(末宗)との繋がりを象徴する神社として、
また、上記の子の誕生の前後関係は不明なものの、父でもある清麻呂の、航海の安全、行く末を祈った神社でもあると予想する。再登場させてしまうと、第六感はそう語っている。
もしそれが正解ならば、金刀比羅神社は、おそろく宗家として豊前宇佐に残り続けた秦氏と和気清麻呂の血を引く「末宗」という氏族のルーツの地そのものだ。
それほど重要な神社なのだから、豪華に再建させてあげたい気持ちもあれば、そのままの姿でこの先の千年、二千年も残り続けてほしい気もする。そんな子孫の想い。

最後に、もう一つ。
中国地方の末宗は和気側が呼び戻した可能性も~と書いたが、清麻呂の姉である和気広虫の配流先は備後国で、清麻呂の雪冤を祈願して創祀されたのが広島県三原市にある御調八幡宮。
そして前の記事で挙げた「末宗名」という地名が存在したのも同じく広島県三原市。

ほとんどすべての事柄が歴史の謎に包まれたままで、この先もきっと謎は謎のままなんだけど、それでも微かな灯りが見えない道に続いているのを感じ取れたような、先祖たちが「よく答えまで辿り着いたね」と笑いかけてくれているような、そんな気持ちになれるほどの達成感がある。
同じ現代を生き、そこへと導くヒントをくれた方々に改めて、深く感謝したい。

以上です。


【再追記】
もし同じ末宗の姓を持つ方やこの名字に興味を持ってくれた方が、長々と読んできて氏の変貌や血の繋がりはわかったけれど、要するにどういうことなのか、人から質問された際に何と答えればいいのかまだわかりづらい、というような場合は困るかなと思ったので、まとめておきます。
簡単に説明するのなら、どういうことなのかを。

末宗の由来って何?という質問には、
宇佐八幡宮の神官や武官の氏族、平安京を作った人物の末裔」と答えられる。

先祖には誰がいるの?という質問には、
和気清麻呂・垂仁天皇」が挙げられる。特定の人物でなくても良いのなら、秦氏の流れにあるとも。

はい、こんな感じです。


【再々…以下略】
長々と書いてきた文章を後から書き直したり、書き加え続けていたら、逆に読みづらくなってしまいそうなので、頂いた情報や見つけた文献は箇条書きのように記す方がいいのかもしれない。
ということで、被ってしまうこともあるかもしれないけど、以下に。

○御駈士
末宗は宇佐八幡宮荘園の岩崎荘で、八幡宮から補任された御駈士だった時期があるとのこと。
「駈」は馬に乗って走らせるという意味で、「駈士」は「騎兵」に相当するらしく、要は宇佐八幡宮の武官・武家。
御祓会(御神幸祭・宇佐夏越祭り)の際は毎年武装騎馬にて神列に供奉する家だったようだが、文政10年(1872年)に島原藩から社人は帯刀するべからずといったお達しが来たので、多分帯刀はそこまで。(通達の時期は豊洲御領として島原藩の飛地領だったらしい)

おそらく武家になる前、豊臣秀吉により宇佐八幡宮領が没収され、黒田孝高が豊前に入封する以前は、岩崎という土地周辺の五家(恒弘、弘行、貞平、清祐、為重)と共に、宇佐八幡宮の神官であり、八幡神に捧げる御供田の耕作者や、岩崎神社の神職としての役割が強かった。
末宗の場合はそれに金刀比羅神社や柁鼻神社も加わると予想される。


【お願い】
引き続き、新たな情報や、戸籍より昔の系図等お持ちの方からのメールお待ちしております。
よろしくお願いいたします。


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