6月30日。
5時前に起きた。アラームが鳴るまでは20分近くあったけど、枕の先の小窓から差し込む自然光とここ約40日間の習慣で目が覚めた。
小さな物音が下から聞こえていたけど、カプセルから出るとかほちゃんも早くから起きていたということがわかった。起きられるか不安であまり寝られなかったらしい。
顔を洗ってから御廟へと一緒に歩いて向かった。
高野山で迎える朝、その空。
あまりに爽やかで、気持ち良すぎた。
爪はやはり痛むが、安静にしていればそのうち治るだろう。
裏参道を通り、御廟橋に着いたのは、お勤めが始まる6時の30分近く前という用意周到っぷり。想像以上に早く着いたってだけなんだけど。
御廟には灯りが見える。お勤めの準備をしているのか人影も。
どういう流れかはわからなかったが、近くで清掃や準備をしていたおじさんが聞かずとも教えてくれた。
下の写真の右にある御供所から6時に出てきて、嘗試(あじみ)地蔵で味見をしてもらってから御廟へと食事を運ぶらしい。
左は護摩堂。白衣を着たおばさんグループも来た。
僧侶が一人出てきて、水向地蔵にお参りしていた。
6時ちょうどに御供所から食事が運び出されてきた。写真は撮っていいけど、この位置より後ろで見てねと指示された場所からみんなで見ていた。
食事(生身供)は毎朝6時と10時半に2回行われていて、意外にもカレーが出たりすることもあるらしい。
移動が始まった。先頭の方以外はマスクのようなものをしている。
追いかけるように撮ったから写真が残念だけど、御廟橋の前で一礼してから渡っていた。
僧侶たちが御廟前の燈籠堂に着いてから自分たちも移動した。
移動中に先程流れを教えてくれたおじさんと話した。鹿児島、川内の辺りの人らしい。最近は九州は災害続きだねえって。
あのゲストハウスにいた髭の日本人男性の彼も燈籠堂にお参りに来ていたが、おじさんのこれから朝のお勤めあるよという呼びかけには、時間が無いからと言って断っていた。彼は金剛杖より少し長い自然な形の木の杖を持っていた。
お堂の中に上がる際、靴を脱いで(洗濯的な意味で)唯一の生き残り五本指ソックスが露わになったのだが、かほちゃんも同じで面白かった。
燈籠堂の中は数え切れない量の燈籠と肖像画が印象的だった。1000年以上燃え続けているという消えずの火を含め、厳かでありながら、現実とは思えないくらい美しく、言葉を失う神秘さを感じた。
お勤めは約1時間。中央の1人に合わせて6人で読経をしていた。後ろにいた一般の参加者も人数は同じくらい。(高野山に来る人はほぼ全員お寺の宿坊に泊まるうえに、そのそれぞれのお寺でもお勤めがあるみたいだから、この奥の院のお勤めへの参加者は予想より遥かに少なかった)
お勤めの最後には88箇所でも本尊になっていた各仏の御真言(南無不動明王など)を唱えていたのを覚えている。もちろん南無大師遍照金剛もあった。
かほちゃんは当初の予定通りわりとすぐに抜けて無量光院に向かった。その後、僕の右側にいた白人女性も抜けたのだが、抜けるときに(御廟橋を渡るときもそうしていたが)合掌礼拝をしていたけど、それは彼女なりの弘法大師、または日本へのリスペクトなんだろうなと感じた。
お焼香の案内はなかったけれど、読経が終わると、普段着のおばさんがお焼香とお賽銭あげたので、その後白衣を着たおばさん3人も続いて、最後に自分があげた。
お遍路の集大成のような時間がこうして終わった。
燈籠堂でのお勤めが終わってからも近くのお堂(多分、納骨堂)から読経の声が聞こえた。
納経は8時からなのでまた後で来る。
7時20分に宿に戻ると姪浜の彼がフロントで朝食を作っていた。
外人女性ともグッドモーニングと挨拶。旦那と子供も起きていて、その女性は子供に歯磨きをさせていた。昨日から思っているけど子供がほんとに可愛い。
もう一つの家族の子も小さい。片方が3,4歳ってぐらいで、もう片方はヨチヨチ歩き。
オシャレな音楽を聴きながら朝食を食べた。NirvanaのAll Apologiesの女性ヴォーカルによるゆったりめのカバーも流れた。いろんな意味で涅槃。
今は晴れているのにこれから結構雨が降るという予報。
外国人同士の会話で、ある夫婦のおじさんにGirl?と確認されていた女の子。それからその知らないおじさんに抱っこされて泣き出していたのも、どちらも万国共通だ。
朝食を食べ終えると、歯磨きをして、8時にまた奥の院へと向かった。
8時にもなると団体客も見かけるようになって、団体のお遍路グループもいた。
燈籠堂の中にはお堂の裏へと回り込む順路があり、その道を奥へと進むと燈籠堂の窓から見えていた御廟があった。
そしてそこで弘法大師と対面して手を合わせた。御廟には納札入れがあったので納めた。高野山にも納札入れがあるとは思っていなかったので、四国遍路がきちんとここまで続いているのだと実感出来て嬉しかった。
御廟から更に時計回りに進むと、今度は燈籠堂の地下への階段があり、階段の下には地下法場がある。
御廟は弘法大師が入定された場所の上に建てられたという説もあるから、この地下法場の最奥部は最も弘法大師に近付けるとされている場所。最後にそこで合掌礼拝をした。
そしてまた地上へ戻り、御廟橋を渡り、深く礼をして納経所へと向かった。
納経所にはいくつか窓口があり、空いているところを見つけてそこに行こうとしたんだけど、その人が直前に大きなあくびをして、最後の納経をこの人に貰うのはちょっと…と躊躇して、その人を素通りしてからおじさんのところへ行った。
最初の頁からめくっていって、満願おめでとうございますというお祝いの言葉をくれた。歩いてこられましたか?と質問された。平均より1週間以上早いらしい。
高野山にも御姿はあったんだけど、御姿は四国で集められてきたかと思いますが…高野山には無料のものがないので購入してもらうことになりますと。200円で白黒、300円でカラーで、今までのも白黒だったから同じでいいかと白黒を頼んだけど、でもここが最後だし、特別な奥の院だもんなと、すぐに「あ、やっぱりカラーでお願いします」と変更してもらった。大きさは違うけど、額にしたり等いろいろ出来ますと言われた。
これがその御姿。東寺にもあるのなら欲しいなと思った。
そのおじさんは、ゆっくり高野山を見ていってくださいと最後に声を掛けてくれた。ありがとうございましたとお礼を言って去った。
終わった。これで四国遍路は終わりだ。遂に終わった。
涙が出るような感動はなかったけど、ふうっと息を吐いてから噛み締めるような、やり遂げたなという達成感や満足感は強く感じていた。
昨日見逃していた信長公のお墓を見てから宿へ戻った。
すれ違う人々みんなと挨拶をした。おはようございます。
8時50分前に宿に戻ってきた。曇り空だ。
かほちゃんが朝ご飯を食べていて、おしゃぶりをくわえた上半身裸の元気な男の子が音楽に合わせて踊っていた。この子とは後でおにごっこをして遊んだ。
チェックアウトの時間が近付いてくると、姪浜の彼とともに昨日からいたオーナーの奥さんも来て、空いた部屋から清掃をしていた。
かほちゃんは無量光院のお茶会に行っていたらしく、そこで貰ったというチョコを僕にもくれた。
外は雨が降っているので、荷物をまとめてからも、チェックアウトギリギリまでのんびりと過ごすことにした。充電もしながら。
オーナーと気になっていた熊野古道の小辺路(高野山から熊野への道)の話をした。キャンプ道具等持っておけば行けるらしく、伊勢路を歩いた人なら行けると思いますと言っていた。この宿から熊野に行く人も年に20人くらいはいるみたい。
伊勢路は三重県があまり力を入れてないから人気がないらしい。ちょっと残念だ。道自体はとても綺麗なのに。
10時になった。菅笠をバックパックの後ろに付けて、傘を差して、かほちゃんと一緒に宿を出た。
バス停に行ってみたが、待っている人はかなり多いし、次の便までも時間があるみたいだから、歩こうかとなった瞬間にバスが来た。乗ります乗ります。
折り畳み傘では後ろが結構濡れていたからラッキーだった。乗客は自分たち以外全員外国人だったかな。いくら世界遺産とは言え、紀伊半島で感じる異国感に、ここ本当に和歌山だよね…?と笑い合った。
車窓からは100円のコインランドリーを見つけて、こんなのもあるんだなーと昨日は見つけられなかった建物を新たに発見しては楽しんでいた。
金剛峯寺とかほちゃんが寄りたいと言っていた本屋が近いバス停で下りた。(どこで下りるかは昨日金剛峯寺にも行って、散策もしていたかほちゃんが教えてくれた)
彼女はどうやら寺院などで貰うパンフレットを入れるクリアファイルが欲しかったようでその本屋で買っていた。そしてここで僕らはお別れ。手を伸ばしてくれたので握手をした。またどこかでと(京都に来るときはゲストハウスにも遊びに来てよとのことだったので実際に9月に行った)。明るくて、爽やかで、とても感じの良い子だった。
それでは金剛峯寺へ。
高野山真言宗総本山。高野山を象徴するお寺であり、金剛峯寺という寺名は高野山全体を指す場合もある。
ここにも納札入れ。
割引された拝観料を払って中へ。
写真撮影は禁止だったけど、豊臣秀次が自刃した柳の間を含め、すべての襖絵が綺麗で見惚れた。
参拝者の休憩所である新別殿でお茶とお菓子のお接待を頂くことにした。
新別殿の入り口ではとても優しい物言いなお坊さんが話しかけてくれて、四国回ってこられたんですか?歩きで?という質問から日数を答えると、早いですねえと。徳がある感じしますとも言われた。本当にご苦労様でした。ごゆっくり休んでいかれてくださいと奥へ通してくれた。
ここはもちろんお遍路以外の方も使えるんだけど、広い間に自分1人だけだった。程なくしておじさんが1人来たけど。
2人になると、先程のお坊さんがマイクを使って、高野山と弘法大師空海さんについてのお話(法話)をしてくれた。
お釈迦様は何度も生まれ変わり仏になっていくと説いたけど、弘法大師はみんな仏になる種を持っていると説いたという即身成仏や、ご入定についてなど、本当にわかりやすく話してくれた。
特に印象的だったのは、この金剛峯寺にある蓮の花について。高野山の雨は弘法大師の雨、いろんなことを洗い流してくれるといったお話。
新別殿に寄るかは迷っていたけど、寄ってよかったと思った。お坊さんは最後に僕の方に寄ってきて、どうかお気をつけてと声を掛けてくれた。
足で踏んではいないけど畳の縁にお盆が…
法話が終わってしばらくして僕と入れ替わるように女性が2人来た。
新別殿から離れる際に入り口付近でまたお坊さんに会って、法話のお礼を伝えると、帰られるのですか?本当にご苦労様でしたと。
日本最大級の石庭の蟠龍庭。雲海の中で龍が向かい合い、奥殿を守っている風に表現されている。龍を表す石は四国から、雲海を表す白川砂は京都からのもの。見事だった。
台所。実際にここで大勢の僧侶の食事を賄っていたらしい。(かまどは現在も使われている)
このお寺での僧侶たちのかつての生活を想像すると面白かった。
拝観が終わって納経を貰おうかと考えたのだが、一度靴を履いてからまた戻ったりと、本当に迷っていた。迷っていた理由は納経帳の空いている頁がもう最後のハードカバーのところしかなかったから。もしかすると失礼にあたるかもしれないと結局貰わなかった。ここに来たということは変わりないから。
次は奥の院と並び高野山の二大聖地とされる壇上伽藍へ。
手を繋いだカップルの後ろを霊宝館まで歩くことになった。霊宝館には行きたかったのだが、時間が足りないので、またいつか来るさと行きはしなかった。通ろうと思っていた蛇腹道もいつの間にか逃していた。別に気にすることじゃないけど。
お礼参りの地でもあるが、高野山にいるのはほとんどが観光客。
歩き遍路っぽいおっちゃんを見つけて挨拶をしたら満面の笑みを浮かべていた。同志と久しぶりに再会したような嬉しそうな笑顔だった。
中門を通り、壇上伽藍へ。
弘法大師が唐での留学を終え、帰国する前に投げた三鈷(法具)が、ここ壇上伽藍の経つ壇上に落ちたとされている。
帰国後三鈷を探していた弘法大師が、大和で黒と白の犬を連れた猟師に出会い、その犬に導かれて山中へ入ると、今度は1人の女性に出会い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と告げられ、更に山中へと進むと幽寂な大地があり、そこにあった1本の松の木に唐で投げた三鈷が引っ掛かっているのを見つけ、この地が真言密教にふさわしい地だと開山を決意したという伝承がある。
まず目に入るのが上の金堂。そして金堂は高野山の総本堂。でもなぜか(大日如来に導かれて…?)先に大塔にお参りした。
根本大塔。日本で最初の多宝塔で、本尊は胎蔵大日如来。塔内では立体曼荼羅が表現されていた。
根本大塔には受付がいるわけではなく、拝観料を入れる箱があるだけ。
そこでインドとかバングラデシュとかそっち系の女性に、ここの割引券はどれ?と(自分が同じく持っている高野山世界遺産切符の中から)聞かれて、根本大塔の割引券がどれかを、そして、この箱に160円を入れて…といった一通りの手順を教えた。(同行者のもう1人の女性にも)
Are you Buddhist?と聞かれて、違うよと答えた。じゃあ(仏教は)好き?という質問には、いぇあ。
自分が大塔の中を一周し終えると、今度は瞑想出来る場所は知らない?と聞かれた。瞑想か…と考えて、あ、さっきの金剛峰寺で阿字観体験出来たはずと思い出して教えた。お礼を言われた別れた。
そして金堂。本尊は薬師如来。納札入れがあるとやっぱり嬉しい。さっきから結構見かけるけど。
ここも根本大塔と同じく内部にとても迫力があった。像や壁画はもはや芸術として捉えた方が理解は早いのかもしれない。
金堂をお参りしている際に、先程はMeditationという単語ばかりに意識がいっていたけど、もしかすると彼女は”無料で出来るところ”と言ってなかっただろうか…と不安になってきて、教え直したかった。
大塔に金剛杖を忘れていたから取りに戻って、彼女たちの姿を探してみたけど見当たらなかった。周辺も見渡してみたが既にこの近くにはいなさそうだった。
一応教えるときに、「多分」を付けては言ったけど、ああ…ごめんねえ…と申し訳なくて、その後も気になり続けて仕方なかった。
費用も説明してくれるだろうし、この日行われていなかったり、無料のところを探してるのなら、他のお寺を紹介してくれるだろう…と罪悪感を感じ続ける自分に言い聞かせた。
この辺りを歩いていると、突然日本人のおばちゃんから、だいぶ先の方歩いとったのに戻ったんやねえと言われた。よくわからなかったけど、ここに来る前に自分をどこかで見かけたんだろう。
さよなら壇上伽藍。
アパートがあるのは普通に面白い。お寺関係以外の人はどんな暮らしをしているのだろう。
次は大門へ。何か食べたいけど、歩いていた通りには良い感じの飲食店はなかった。
駅行きのバスまではあと30分。
大門。いや、デカいな…と驚いた。
西の入り口。11世紀末には総門として鳥居が建てられていたみたいだけど、再建されて現在はこの形に。
天気が良ければ淡路島まで見えるそうな。
あまりに巨大でかなり後ろの方まで(車道近くまで)下がらないと全部を写しきれなかった。町石道や車で来た場合はこの門が入り口として目に入るだろうからきっと圧倒されるだろう。
大門から町の方へと戻っていたら遍路マークを見つけた。間違いなくここ高野山が最終到達地だ。
ファミマでささっと買い物を済ませた。早くバス停へ戻ろう。
写真は店外の休憩スペースにいた高野山在住の猫さん。
大門まで戻らないといけないと急いでいたが、手前の愛宕前というバス停からも乗れることに気付いた。あと10分後。
それから折り畳み傘をどこかに忘れていることにも気付いた。ポケットには袋だけ残っている。きっと金剛峯寺だろうな。お寺に入る際に結構濡れていたので傘置き場に置いていたのだが、お寺を出た際には晴れていたから。ちゃんと折り畳めばよかった。取りに戻っていたら間に合わないので断念した。お寺の方ごめんなさい…。
バス停で待っていると外国人のおばあさんが、折れて落ちた木の枝を眺めて、そこから葉を一枚大切そうに拾っている光景を見た。
その女性と会話をすることになった。ハローと話しかけられて、次のバスへの時間を教えた。でも食べ物必要なのよ。あなたはこれからどこへ行くの?と聞かれ、もういろいろと見終わったあとだよと言った。高野山に来る前は1000キロ近く歩いたんだと話すと、Wow…Congratulations!と祝ってくれた。お別れの言葉はバイバイ。
乗り換えの予定。便利な時代です。
そしてバスが来て駅へと向かった。次、高野山駅~になってからの粋な自動アナウンスは、必聴とまではいかなくても、個人的にはとても良かったと思う。
もうすぐ高野山を去る。その奥深さを知るには、行きたい場所を回りきるには、あまりに時間が足りなかったが、今回の目的は観光ではなかったし、本来の目的は果たせたから満足だ。
世界に誇れる素晴らしい場所だった。またいつか来よう。
バスが駅に着いた。このケーブルカーを逃すと次は50分後らしい。乗れてよかった。
発車まで時間がなく焦っていたので、目に入った中で良さげなものをお土産として買った。
こっちは自分用。いぇい。
さよなら高野山。
これから入山する人たちと交代。
極楽橋駅に着くと昨日はなかった風鈴が設置されていた。
ファミマで買ったいちごオーレ、チョコチップメロンパン、メロンパフェを食べた。横向きの座席の向かいには20代前半ぐらいの女の子がいて、可愛すぎる自分のチョイスどうなの…と思いつつ、いちごオーレが500mlあって、最初の方は美味しかったのに、徐々にこんなにあると飽きるな…と吐きそうになりながら、ちびちびと飲み続けて飲み干した。
眠たいが、この眠気を我慢して夜行バスに乗るべきなのだろう。
とはわかっていても、眠たすぎて、橋本駅に着くまでの間少し寝ていた。
寝ぼけていたのか、橋本駅では間違ってJRの方の改札に切符を吸い込まれてしまったが、駅員のお兄さんが優しく対応してくれたので救われた。ホームは…そのままです!
難波駅行きの急行はすぐには出なかった。
走行し始めてから、徐々に人は増えるだろうからと荷物を上にあげた。大したことはなかったけどそのとき少し手を打って痛かった。
金剛杖のカバーの鈴が付いた紐が完全に外れてしまった。通すのが難しすぎてもう適当に結んだ。
向かいの席の白人カップルはめちゃくちゃデカかった。茶色い髭の男性は2メートル以上あって、眼鏡をかけた女性も180cm近くかそれ以上。女性の方からイチャつきだしたが、許そう。この女性はさっきから横になって席に寝転んだりしているけど、許そう。靴は脱いでるし、まだ席は空いているのだから。
でも少し遠くにいる女子2人の白人はちゃんと座っている。白人で一緒にするのは失礼だ。アジア人でくくられたら日本人も大いに被害を受けそうだし。それから男の方も足を下ろしたまま寝てしまい、デカいから2人で一列をほぼ埋め尽くしていた。女性の膝枕で男性が寝るという体勢にもなっていた。混んできたらちゃんと座っていたので許そう。
何気に今日も結構歩いた。まだ歩くかもしれない。
なんばから梅田に移動して、今治で出会ったプロブロガーさんとカフェに行った。
この旅で知り合った誰かとまた話したいなーという気分だったんだけど、ブログを教えてもらう際に連絡先も交換していて、結願する直前にお遍路終わった?と来ていたし、ちょうど実家の大阪に帰省しているとのことだったので、バスに乗る前に会って話すことになっていた。
パスタを食べながら太ももがつって笑ったけど、会話は期待していた通り面白かった。やっぱり彼女すごいわと感心した。視点が面白いというのは今治で知っていたが、自費出版みたいなこともやっているらしく、そういった稼ぎ方について詳しく聞けて、本当に勉強になった。お遍路についての体験を誰かに話したいという欲も結構満たされたし満足。
プロブロガーさんと別れてからはモータープールに向かった。案の定大阪に来てからも歩きまくった。でもまあ、これでしばらくの歩き納めとなるだろう。
どこかの鏡で肩を見たら痣みたいに色が変わっていたが、それだけ重かったのだろう。このときも肩が実に辛かった。
ローソンでちょっとした食べ物とアイスミルクティーを買ってからバスを待つということ。
杖のカバーは荷物を預けている間に取れたら困るので、もう外してバックパックのポケットの中に入れた。
赤青黄色と車に轢かれる確率は低そうだが、なんとまあバランスの悪い荷物構成か。よく歩いた。
自分が乗るバスを待っていると突然、お遍路ですか?と話しかけられた。モータープールの手前で自分を見てるなあと視線を感じていた男性だった。
32歳の元バックパッカーで、長野で山小屋の仕事を見てきて、これから妻のいる山口へ荷物を取りに帰るらしい。お遍路については以前検討したことがあって、本も買ったと言っていた。
この男性は面白い経験を沢山していて、妻と世界一周旅行もしたことがある人だった。トレッキングが好きならヒマラヤやガラパゴスが良かったよと勧めてくれた。
山小屋の仕事探しとともに、多分今回行ってきたヴィパッサナー瞑想というものについても教えてくれた。
それはインドで生まれた瞑想法で、10日ほど集団合宿をしながら瞑想をするみたいなんだけど、携帯等持ち込み禁止で外部と接触禁止だったり、参加者たちも話をしてはいけないどころか、目を合わせてもいけないらしい。日本では千葉と京都でしかやっていないが、かつての参加者からの寄付で運営されているから費用は無料とのこと。
彼はその合宿で海外を旅しているときに出会った人(香港人だったかな?)と奇跡的な再会があったらしい。やはり縁とは面白い。
よく知らない人からすると怪しく感じるかもしれないけど興味があったら是非と。
そこまで日焼けはしてませんねという話の流れから、それよく言われましたと返したら、あ、でもこの中じゃだいぶ日焼けしてますよ。と他のバス待ちの人たちを見渡してから言われて笑った。
お遍路はもう終わったのに、初対面の人に話しかけられ、こんなに盛り上がるとは思わなかった。菅笠や金剛杖のおかげだ。いや、まだお遍路の途中なのか、うん。
話してみたら結構馬が合うかもしれない他人というのはいるだろうけど、でも普段の生活で初対面の人と話すタイミングなんてほとんどない。
だから、道中の出会いも含めて、もうこれからは、お遍路ですか?と話しかけられることもなくなる。そのことについて考えると寂しくなった。
友達などと待っている人以外(つまり1人の客)が大多数だったけど、その大多数の人たちはスマホとにらめっこしていたり、イヤホンで音楽を聴いたりしていただけだったから。
出会ったばかりの人と話している人なんて一人もいなかった。悲しいけどそれが現実なんだ。僕だって普段はそちら側だし。
バスに乗り込んで、飲み物を飲むためにストローを袋から取り出していたら落としてしまった。どうしようもないので服で拭いてそのまま挿した。あれだけウェットティッシュをコンビニで貰っていたのに、ここには持ち込んでないというミス。まあ死にはしないさ。どうせ結構前からお腹はぐるぐる鳴ってるし(原因いちごオレ説)、気にしないでいこう。
マスクはつけなくても別によかったんだけど、行きのバスからずっと持っていたものが残っていたからつけた。
久しぶりの長い旅だったし、九州に戻るというのが不思議だった。激しくない雨なら歓迎なんだが。
バスがSAで途中休憩の際、32歳の彼からタバコ吸う人?と聞かれた。吸わないですと答えてバスに戻った。生どら焼き食べる人。
寒いのに特に上着も持っていないから、夜行バスに乗って初めてブランケットがありがたく感じたかもしれない。サイズがもっと大きくてもよかったけど。
三宮から乗ってきた右斜め前に座っていた男性は消灯してからも液晶画面を明るくしたままずっと映像を見ていて、その光が目に飛び込み続けていたので眠る環境としては甚だ快適すぎた。別にいいけど。後でわかったことだが日本人ではない東アジアの人だった。
気付けば日付変わって7月1日。吉備SAに着いた。
お腰につけてはいない生きびだんごを買うと、店員さんが溶けてから食べてくださいね、中央を押してぷにぷにしてきたら食べ頃ですと説明してくれた。美味しかった。
桃最高。吉備SAはこの世の天国感ある。
桃太郎からは狂気を感じるけど。
消灯後の夜行バスなんて特にやることもない。イヤホンで音楽を聴くか、寝るだけ。でも僕はiPodもイヤホンもないので寝るしか選択肢がなかった。
霧の関門橋。
夜行バスの車窓で関門海峡を渡る瞬間を見た記憶は今まで一度もなかったかもしれない。
山口へと帰る彼が小倉で降りる際、最後に、またどこかでと言ってくれた。良い別れの言葉だ。またどこかで。
そして博多に着いて、長かった旅は終わりを告げた。
見慣れた風景のいつもの日常に戻ると、こうしてる今も歩いている人がいるんだろうなと自然に考えていた。
自分が歩いている帰り道は今まで幾度となく歩いた道なのに、すべてが違って見えるようだった。誰も知らない、自分にだけ訪れた新しい朝。
なんだか良い顔をしてるねと言われたのは本当にそうだったんじゃないかと思う。約40日間にも及ぶ旅で自分が得たもの。起こった変化。誰もそれを知らなくても。
四国や高野山(+88箇所や33箇所がある地域)以外では、変わった格好をした人としか見えなかっただろう。でも歩みを進めるたびに聞こえていた杖の音は、自分が新たな道を歩んでいるのだと、次の場所へと向かっているのだとはっきりと教えてくれていた。
それは嘘でも酔いでもなく、確かなことなのだと感じられた。そしてそのことを自分自身が感じているということが何よりも大事なのだと気付けるようになっていた。
旅を振り返る。振り返ることが多すぎて、いろいろと書けすぎるから、正直何を書くかは難しいけれど、書く。
まずは遍路という旅について。
それはもう本当に楽しかった。その楽しさの一番上にあったもの、最も楽しかったことを挙げるのなら、やはり出会いになると思う。
毎日のように出会いがあって、そのどれもが楽しかった。同じ遍路となら特にそうなんだけど、今まで一度も会ったことのない人とでも(年齢、性別、国籍問わず)すぐに打ち解けられた。
その出会った他の遍路たちとの再会も面白かったし、地元の人々との交流もまた良い時間を過ごせた。
四国の人たちの温かさはやはり特筆すべきものがある。いくらお接待という文化があるにしても、信じられないくらいの沢山の優しさ・気遣いを受け取った。
つい先日テレビで、オランダの25歳の女性が遍路をしているのが放送されていたのだけど、気になってTwitterを検索してみたら「こんなに歓迎されるのは外国人でテレビカメラがあるからでしょ」といったツイートを見つけた。
ああ、そう思うのが普通なのかなと驚いたが、でも僕はその映っていたおもてなしが、外国人だからとか、テレビがあるからとか、そういった理由で行われているのではないとこの身で実感してきた。無関心な人ももちろんいるが、温かくしてくれる地元の方はとことん温かい。良い人という表現では足りないだろう。本当に嬉しかったし、何度も助けられた。
自分以外の遍路も当然いろんな人がいる。いろんな理由で四国へ来て、いろんな想いを抱えながら歩いている。気難しい人や絡みづらい人もいるけど、仲良くなれる人との出会いはもう楽しすぎて、足や肩が痛くても、その出会いの楽しさで乗り切れた。そんな人たちとはどこかしら共通点もあるものだし。
反省点を挙げる。
僕の場合はやはり用具面での選択ミス。ウォーキングシューズ、トレッキングシューズといっても様々だが、間違いなく僕はトレッキングシューズを履いてくるべきだった。靴を間違えたことで、難易度が二段階も三段階も上ったような気がする。また、バックパックのサイズや雨具についても失敗して、怪我の処置方法も誤って、それらもまた自分の重荷や不安になってしまっていた。
自分の経験を踏まえて、用具についてはリストを作ろうかと思う。少しでも誰かの役に立てるのなら意味はあるはずだ。
写真をもっとしっかり撮っておけばよかったとも思うけど、きちんと停止するのがめんどくさかったというのは歩きながら感じていたし、それについてはそこまで後悔はない。
悔いていることを強いて挙げるのなら、それは読経を短縮したことだと思う。最初は御宝号だけ、後に御真言も加わっていったけど、最初から全部やっておけばよかったと思った。でもその読経を全部していたら滞在時間等も変わって、出会えた人々に出会えなかったかもしれないと考えると、これもまた深く悔やんでいるわけではない。お寺や仏教に関しての敬意は常に持ち続けていたと思うし。
その仏教や密教について。
最初の方にも書いたと思うが、自分は神社や神道は好きだけど、仏教には今までほとんど興味を持っていなかったし、正直そこまで好きでもなかった。
でもこの旅で仏教について深く考え、旅を終えてからも、今まで知らなかったことを多く学んで、純粋に面白いなと思ったし、それと同時に仏教がなぜ遥か昔に海の向こうから渡ってきて、土着信仰が根付いていたこの日本という国に馴染み、庶民だけでなく、皇族や武士たちからも崇敬されてきたのかを理解した。
その流れは聖徳太子や聖武天皇、奈良仏教の影響ももちろんあるだろうが、やはり現在まで続く形を整えたのは空海と最澄という平安仏教の2人が、より日本に合った形、日本人の心に寄り添うように解釈(アレンジ)したからだと思う。理想的な宗教になったからこそ、神と仏が混ざり合って神仏習合にもなったし、神道が忌む死の部分での棲み分けも上手く出来て、外国産の宗教から日本人が必要な日本的な宗教へと変貌を遂げた。
この旅で僕が仏教を好きになった一番の理由は、信仰とは少し反れるが、彫刻や絵画といった芸術としての仏教(密教)に惹かれたからかもしれない。大日如来や曼荼羅のような世界観も魅力的だった。仏教について学んだからこそ、芸術鑑賞という点でもより幅広く楽しめるようになったかな。
弘法大師についても書こう。
源泉を当てたとかは良いんだけど、正直なところ、崖から飛び降りたら雲の中から天女が現れて助けられたとか、岩を念力で捻じ曲げたというような、現実にはありえない伝承は好きじゃない。(信仰という意味では伝説的な方がそりゃいいけど)
それは、(司馬遼太郎の空海の風景を読んでいても感じたが)実在した人物としての弘法大師空海さんが好きだから。
正統な密教の継承者、世界唯一の確立者として人々に救済の道を開いたということだけでなく、書家としてや、土木技術者としてなど、多才な偉人として尊敬に値する人物だし、間違いなく彼はこの日本という国に貢献した人。
エリートコースにいたのに中退して、放浪していたというようなところも好きかもしれない。
とりあえず、彼がいなければ僕が遍路旅をすることはなかったわけだし、開創から1200年を経った現在でも、その現在を生きる自分に救いの旅を用意してくれていたことを感謝している。
そう、この旅は自分の心にとって救いの旅、供養の旅でもあった。ゆっくりと時間を掛けて、その死を受け入れるような旅だった。
祖母とのいろんな想い出を思い出しながら歩いた。激しい雨の降る中や山の道で涙を流したりもした。でもその涙が必要だったのだと思う。ちゃんと泣けたことで、悲しみも癒えていった。
思い出せば今も寂しくなるし、簡単に涙は溜まってしまうけど、それでも貰った腕時計を持って、四国を旅することも出来た。
それは冥福を祈るという行為、祈りの旅だった。
辛かったけれど、楽しめてもいたから、きっと喜んでくれていると思う。
現実に戻った自分の変化についてはどうだろう。
信じてもらえるかはわからないけど、帰ってきてからは本当に、すべてが許せるような、まるで涅槃のような状態だった。修行というか、忍耐の旅でもあったから、そういった苦しみを乗り越えた自分がいたからだと思う。
だが日常に浸っているとその穏やかな心は徐々に元に戻っていった気がする。
例えば苛立ちという点では、まったく苛立たなかったのが気付いたら苛立つようになっていたし、他の負の感情もだいたい同じ感じ。
でもそれは仕方がないことだと思う。終わった直後がほぼ完璧な精神状態だったから、多少落ちていくのは当たり前。
それでも、自分で言うのはなんだけど、その完璧な状態から、寛大さや包容力といったところは残っている(もしくは身に付いたような)気がする。
何かを得たくて行ったわけではない。しかし得たものは(精神面だけ見ても)あった。
どう説明したらいいか迷うが、日常には、腹を立てたり、悲しんだりすべきじゃないことが沢山ある。そういった自分にとってプラスにならないことは、仏のような心で受け取って、捨てるか飲み込めばいい。
感情が鈍感というのは豊かで穏やかな人生には理想的だけど、今の自分には危険でもあるだろうから、まあ問題はない。残るべきことが少しは残っているのだから良かったんだ。
もうそろそろ締めてもいい気がするが、もう少しだけ。
遍路旅は楽しかったけど、人には気軽に勧められない。時間も費用も体力も使うから。
でも本当に楽しかった。自分は自分の失態で辛さ(修行感)を増してしまったけど、その辛さを含めてもやはり楽しかった。どんな辛さにも耐えられる楽しい出会いがあったから。
非日常的な楽しさを思い出せば、なぜお遍路にはリピーターが多いのかがわかる。半年経った自分の心の中にもまた歩きたいかも…と思う気持ちがあるから。
旅で出会った人たちは元気にしているだろうか。
ほとんどの人と連絡先は交換していないが、交換しておけばよかったなと思う人たちはいる。だけど後悔はない。一期一会として切ない魅力を彼らは持ち続けているから。きっとこれから先もずっと。
出会いや別れに関しては、今後もそういったパターンはあるだろう。人生の人との繋がりはその2つの繰り返しだし。そして未来のそれもまた同じようなことになりそうだ。
お遍路の中には(歩くことがメインだから)仏教はどうでもいいという人も(年齢問わず)多いのだが、自分は一応学んだ。そして多くのものを得たと思う。
中学生ぐらいの頃は、宗教は心の弱い人間が現実逃避をするためにあるものと考えていたが、今はむしろ現実に向き合うために宗教があるのだと感じる。すべての宗教がとはいかないが、少なくとも仏教はそうだと思う。
言ってしまえば、絶対的な正義や完璧な清さというのは、煩悩にまみれた人間社会に置いては、指針となり得るのだと気付いた。
そして聖なる教えというのは、やはり精神面において役立つことが多い。多くは、完璧な神や仏の言葉だったり、そういった存在に近付くためとして存在するから。
現実社会が嫌だからと、思考のすべてを完全に宗教やスピリチュアル的なものに預けたりは僕はしない。だが宗教の説く正しさは、目指す理想にもなりえる。その古代から続く人々の創造的な発想(智慧)はしっかりと自分の人生に吸収したい。
遍路の記事を書きながら、なんとなく札所のお寺(観自在寺だけど)を検索してみたら、Instagramで、鐘をしばき倒してきた(笑)というような説明で、壊してしまうような勢いで梵鐘を鳴らして爆笑している同世代の若者の動画が出てきた。
それを見ていると、旅の間、若いのに偉いねと言われ続けていた理由がわかった気がした。
極論だけど、先祖たちが信仰してきたものを蔑ろにするというのは、(仏だとか罰だとかそういう信仰対象側のあれこれは置いておいて)先祖を馬鹿にするということでもあると思った。
そして、自分の命が今存在する理由である先祖を馬鹿にするというのは、自分の命も軽んじているのと同義に近いのではないだろうかとも考えた。
別に信仰を持てという話ではないし、何をどう想うかは個人の自由だけど、大切にすべきことは大切に出来る人間でありたい。(出来れば品性も持っていたい)
とりあえず今20代前半の自分を見つめて思うのは、繋がれてきた命、繋いでくれた命に敬意を払えない側の人間ではなくて良かったということ。
仏の恵みとは何か、それを考えようと出発前に決めていたが、「諸行無常であること」という答えが出た。でもそれが仏の恵みなのかはわからないし、深く説明出来るわけでもないのでこれ以上は書かない。
無について何か考えなさいと旅の途中言われたが、それについて出した答えは軽薄すぎるような気がするので、一切書かない。今追い求めるべき疑問でもないはずだから。
四国は一周したが、すべては歩かなかった。
でもどんな道(手段)を選んでも、そこには必ずその選択でしか起こり得ないことがあった。どれも間違いではない選択だったと信じている。
旅だけでなく今までのことも、後悔はしたとしても、し続ける必要はないことばかり。
最後に後日談。
約束していた通り結願報告のメールを中野君に送ると、お祝いの言葉と休職期間が伸びたのでお遍路を再開するという返信があり、約2週間後に彼の結願報告も届いた。他の記事で書いたけど、去年の年末には彼の帰省に合わせて、半年ぶりにまた会って話す機会もあった。同じ時間を共有していたこともあり、盛り上がれて楽しかった。ふじやで別れた後にどんなことがあったかという新しい話題もあったし。
彼は遍路再開後ある人から、縁というのは自然に生まれるものと、自分で作るものがあるという話を聞いたらしい。中野君が作ってくれた後者の縁でそのときは再会出来た。
その縁についての言葉は自分にとっても覚えておいて損はない言葉だと思う。どう役立つかはまだわからないけど。
本当は四国が終わってから、篠栗の遍路も行こうと考えていたんだけど(そのつもりで杖は奉納しなかったし)、爪の治りが遅くて未だに行ってない。
終わってから皮膚科に行ったら、巻き爪が原因だろうとテーピングと塗り薬を貰って、テーピング治療をすることになったんだけど、それから長いこと安静にしていたのになかなか治らなくて、数ヶ月経っていたのに比叡山ではまた膿が出た。膿については今は大丈夫と思うけど、ずっと赤い腫れは残り続けているし(今年になってようやくぱっと見ではわからない程度にはなったけど)、足の指先が冷えるとまだ少し痛むような気がする。
まあ、それだけ酷い状態、すぐに旅を中断すべき状態だったのに、腐ってでも結願してやるぐらいの覚悟で歩き続けていたから、仕方ないかな。
病院でも薬局でも、何かスポーツでの怪我?と聞かれて、いや、お遍路って知ってます…?と返すと、めちゃくちゃ盛り上がったから良しとしよう。
結局何が原因だったのかはわからないけど、痛みはほとんど引いたし、完治もそう遠くはないだろうから。
こんなところで締めようか。
楽しい旅だった。あまりに沢山のことがあったからすべては書けなかったけど、良い旅が出来たということは伝わったかな。
おしまい。