写真ありきの場面描写や会話の文字起こしばかりで、オリジナル感出せてるかこれ…?と書きながら不安になったけど、どれも間違いなく自分の身に起こった出来事ばかりというのは確かだし、切り取った一瞬一瞬を繋ぎ合わせてみれば、十人十色の旅での自分なりのストーリーはあったようだから、一応それを書くことはできたのかなと今では思う。
自分は熊野古道・お遍路を経て、サンティアゴ巡礼(カミーノ)に行ったので、日本の巡礼路のことは多少は知っている人間としての視点で、どんな旅だったかを振り返って、正直に感想を書いていく。長々と。
現地に行って、旅をスタートさせて、(特に)序盤に感じたのは戸惑いだった。その理由は、サンティアゴ巡礼に巡礼感がなかったから。
あるアメリカ人が「教会は常に開かれているべきなのに」とこぼしたように、キリスト教の旅なのに教会に入れないというのがまずショックだった。というのも、町にある教会は夜のミサのとき以外は基本閉まっているし、その夜のミサも(翌日も歩く)巡礼者にとっては遅い時間の開始だったり、地元の人以外は気軽に参加できない教会があったので、これじゃあ教会を巡る旅ではなくて、格安宿を巡るスタンプラリーじゃないか…と困惑した。
サンティアゴという聖地(特定の目的地)を目指しているので、道中は重要視されないのかもしれないが、何しろ八十八箇所を巡ってきた身なので、え…?なにこれ…?と疑問を抱いたのも当然ではなかろうか。普通に道を歩いて、普通にご飯を食べて、普通に寝る。あれ、どこに巡礼要素あるの…?と。
巡礼旅が初めての人や、過去に巡礼路を経験した人でも信仰心やその宗教への関心が薄い人なら問題ないだろうけど、こちらは巡礼ガチ勢なので、当然そこにあると思っていた荘厳な雰囲気がないことに落胆したのは事実。もっと言ってしまうなら「なんだよキリスト教。薄味だな。しょぼいな」と拍子抜けした。
自分は教徒ではないので強くは言えないが、常に人、人、人に囲まれて、その参加者たちの姿勢も巡礼者のそれではなかったのも影響しているはず。
午後2時や3時には歩き終わって、到着した先の宿やバーでビールやワインを飲んでいるというのがカミーノの日常で、それが一日も途切れることなく繰り返されていた。
事前に読んでいた情報から「パーティーみたいな巡礼」だというのは知っていたが、あまりに信仰・宗教要素が薄いので、これではもはや「巡礼みたいなパーティー」だなと思った。
日本の道もそこまで敬虔な信者はいなかったけれど、カミーノではその大多数によって作られる(酔っ払いがいるような)空気に滅入ってしまったのかもしれない。自分は元々スナフキンスタイルの旅が好きというのもあったし。
まあ、わかりやすく言うと、ちと騒がしかった。
交流の旅ということで沢山の人と出会った。もちろん楽しい出会いも多かったが、出会いがあるがゆえに、巡礼ガチ勢の自分にとっては受け入れがたい過ごし方をしている人たちもいた。
泊まる宿はアルベルゲというドミトリーなので、共同生活の中で「あいのり」的な恋愛バラエティーかのように日々を過ごす、というかもう恋愛一辺倒で生活している人たちがいた。要は、聖ヤコブについてではなく、誰と性・行為できるかを考えることで頭がいっぱいの人たちがいたということ。
過去の経験から自然と巡礼に対して求めていた非日常感、うんざりするような浮世からの逃避感など皆無で、これって現実そのものじゃないか…?とも感じた。神聖さなんてどこにもなくて、哀れな自分の失望のみが存在しているように感じた夜さえあった。
勝手に期待して、勝手に肩透かしを食らったのは他でもない自分自身だけど、それって神への冒涜なんじゃないの…?というような人々に囲まれて、神を感じるのはとてもじゃないが困難だった。そのつもりだったのにね。ごめんジーザスや聖ヤコブ。マリリン・マンソンのアンチクライスト・スーパースターもプレイリストから外してきたのにね。