第51番
かくとだに えやはいぶきの さしも草
さしも知らじな 燃ゆる思ひを
現代語訳
こんなにもあなたを恋い慕っているということを どうすれば伝えられるだろう
伊吹山のさしも草のように 燃え上がるこの想いを あなたはまだ知らないのに
作者
藤原実方朝臣 (生年不詳-999年)
解釈
えやは~いふで、言うことが出来ないとなり、いふが伊吹(岐阜と滋賀の境にある伊吹山のこと)と掛かっている。さしも草はヨモギのことでお灸のもぐさの原料。
この歌は女性に想いを伝える為に初めて贈った歌。藤原実方は光源氏のモデルの一人という説があるほど女性関係は派手だったらしい。(清少納言とも交際していた)
第52番
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら
なほ恨めしき 朝ぼらけかな
現代語訳
夜が明けても 日はまた暮れると 知りながら
それでも別れがある夜明けは 憎いものに変わりない
作者
藤原道信朝臣 (972年-994年)
解釈
明日もまた会えると知ってはいるけど、朝になれば帰らなければいけないから、しばし別れる必要がある。後朝に贈った意味はそのままの歌。
藤原道信は第50番の藤原義孝と同じように疱瘡で22,3歳で亡くなっている。和歌の才能があり周りからも期待されていたらしいけど残念な死を迎えた。
第53番
嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くるまは
いかに久しき ものとかは知る
現代語訳
大切な人が来ないと嘆き 一人で寝る夜が明けるまで
その時間がどれだけ長いか あなたはきっと知らないでしょう
作者
右大将道綱母 (936年-995年)
解釈
右大将道綱母は藤原兼家の妻でその名の通り道綱の母。兼家との結婚生活を綴ったのが蜻蛉日記。
彼女は本朝三美人(日本三大美女)に入るほどの美貌を持っていて兼家と結婚出来たけど、実は兼家は浮気者だったようでその心情がこの歌で詠まれている。
第54番
忘れじの ゆく末までは かたければ
今日を限りの 命ともがな
現代語訳
君のことをいつまでも忘れない そんなあなたの言葉が いつまでも変わらないとは限らない
ならばいっそ変わることのない今日のうちに この命を終わらてしまいたい
作者
儀同三司母 (生年不詳-996年)
解釈
ずっと忘れないとは言ってくれたけど、いつ心の変化が起きてその言葉が嘘になるかわからないから、もうその言葉を貰ったばかりで幸せな今日のうちに死んでしまいたい。という歌。
愛の約束なんてどうなるかはわからないし、言いたいことはわからなくもない。
女房三十六歌仙の一人。夫藤原道隆の死後は息子たちが藤原道長との権力争いに敗れたのは不遇の晩年だった模様。
第55番
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ
現代語訳
滝の音は 途絶えてしまって 随分時間は経つけれど
その名は流れ伝わって 今も聞こえ続けている
作者
大納言公任 (966年-1041年)
解釈
滝が枯れてもその滝が素晴らしいものであったなら、それを見た人達によって語り継がれ、いつかはその滝を一度も目にしたことがない人にまでその滝の存在が伝わる。
滝を和歌に例えるなら作者である藤原公任(大納言公任)が亡くなってから千年近く経つけど、約千年後も彼が残した歌はこうして語り継がれていて、彼の千年以上後に生まれた平成生まれの青年が現代語に訳したりしてるんだから、それはとても素敵なことだと思う。
形あるものはいずれ滅びゆくけれど、こうして生き残っているものもある。それを証明している歌。
第56番
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
いまひとたびの 逢ふこともがな
現代語訳
もうすぐわたしはこの世から去ってゆきます
そんな自分への最後の思い出として どうかもう一度あなたにお逢いしたいのです
作者
和泉式部 (978年-没年不詳)
解釈
紫式部に「和歌や恋文は作るのは上手いけどビッチすぎてひどい」と評された和泉式部。恋愛好きの女性らしく歌も恋歌が多い。その自分の恋愛遍歴を綴ったのは和泉式部日記。
逢う=体を重ねるというこの時代のこの歌。つまり、もうすぐ死んでしまう私への最後の思い出としてもう一度あなたとセッ●クスがしたい(~愛してほしいのですとかにしても良いけど)という歌。
死を目前にしてこんな激情的な歌を詠めるってとこがさすがビッチ。紫式部や関係のない男達が煙たがった存在なのがよくわかる。でもこんな歌を贈られた男性は堪らなかったかもしれない。
この時代は平安女流文学が栄華を極めた時代。ここから女性の歌が続いていく。
第57番
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半の月かな
現代語訳
せっかく久しぶりに逢えたというのに それが現実だと実感する前に
あなたは帰ってしまった まるで夜の雲に隠れる月のように
作者
紫式部 (生没年不詳)
解釈
説明不要の源氏物語の作者で、この時代の最重要人物。源氏物語が世界最古の長編小説というのには諸説あるみたいだけど、彼女が世界の文学史にとっても貴重な一冊を書き上げたのは間違いない。
これは恋の歌ではなく、幼なじみと久しぶりの再会をした後に詠んだ歌。せっかく久しぶりに遊びに来てくれたからもっともっと話したかったのに、夜の月が雲にすぐ隠れてしまうようにあっという間に帰ってしまったという寂しさが伝わってくる。
日本女流文学の頂点に立つ女性が詠んだなんとも可愛らしい歌。
第58番
有馬山 猪名の笹原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする
現代語訳
有馬山近くの 猪名の笹原に風が吹けば そよそよと笹は鳴く
そうよ どうしてわたしがあなたを 忘れることができるでしょうか
作者
大弐三位 (999年-1082年)
解釈
大弐三位は紫式部の娘。
有馬山は神戸にある山。猪名の笹原は有馬山南東にある平地で、昔は笹が一面に生えていたらしい。「いでそよ」はそよそよという笹の葉が風で鳴る音とそうですといった意味に掛かっている。
これは男に君の心変わりが心配だと言われたのに返した歌。母親とは違い恋愛上手だったとされているから、なんでそんな心配なんかするようになったの?何かあったの?といった風に笑いながら返してそう。
第59番
やすらはで 寝なましものを さ夜更けて
傾くまでの 月を見しかな
現代語訳
ためらわずに寝てしまえばよかった あなたを待っていたばかりに
夜は更けて 沈みゆく月を見ることになったから
作者
赤染衛門 (956年-1041年)
解釈
和泉式部に並ぶ才能を持っていたとされる女性。でもこちらはビッチではないから同性からも尊敬され、紫式部や清少納言とも交流があったらしい。
この歌はもうそのままの歌。相手の訪問を待っていたら夜が更けて沈む月を見ることになったから、もう最初から寝とけば良かったっていう。
不満はあるけど恨み節っぽく聞こえず、不思議と爽やかに仕上げられているのは多分この歌を自分の為ではなく、妹の為に代作したからかな。(歌交換が当たり前のこの時代は歌を作るのが苦手な人への代作はよくあった)
第60番
大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみもみず 天の橋立
現代語訳
大江山を越えてゆく 生野の道は遠いので
天の橋立も母の手紙も まだ見てはいないのです
作者
小式部内侍 (999年-1025年)
解釈
母である和泉式部の遺伝子を受け継いで恋愛好きの女性として生まれた小式部内侍。しかし20代で藤原公成の子を出産する際に死去。
和歌の才能も遺伝したらしく幼い頃から才能を発揮していたけど、母親の代作だろうと言われていた。
この歌を詠むことになる歌合でも母親が父親の赴任先である丹後国に行っていたから不在で、藤原定頼から「丹後にいる母親に使いはもう出したの?」と皮肉るというか完全に煽られてしまって、そしてこの歌を即興で詠んだとされている。
いく野は行くと生野に、ふみもみずは踏む(行く)と文に掛かっている。
面倒なおっさんの煽りにもこんな技巧を駆使した歌を即座に詠めば、そりゃもうおっさんは閉口するだろうし、周りも脱帽するしかない。
これで60番まで終了。
よっぽど面白い歌じゃない限り、男性より女性の歌の方が訳してて面白い気がする。