第61番
いにしへの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな
現代語訳
遠い昔 奈良の都で咲いた 八重桜
今日は 京の都で 咲き誇る
作者
伊勢大輔 (989年-1060年)
解釈
奈良から宮中へ八重桜が献上され、それを受け取る役目は紫式部だったんだけど、その紫式部は後進の育成の為に新参だった伊勢大輔(いせのたいふ)にその役目を譲った。その際に即興で詠んだのがこの歌。
九重というのは昔中国で王宮を九重の門で囲ったことから宮中の意味。にほひぬるかなは美しく咲いているという意味。
平城京で咲いていた八重桜が今は平安京でも美しく咲いていると言われたら皇室の繁栄も感じられ、その桜を献上された帝もきっと喜んだはず。
第62番
夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ
現代語訳
まだ夜が明けないうちに 鶏の鳴き真似をして わたしに逢おうとしたところで
この逢坂の関は 決して開くことはありません
作者
清少納言 (996年-1025年)
解釈
枕草子を書いた清少納言の歌。紫式部のライバルとされているように彼女もまた教養のある才女だった。
この歌は藤原行成と盛り上がっていたのに、先約でもあったのかすぐに彼は帰ってしまって、後から「鶏が鳴いたから帰った」と言い訳の手紙が届く。知識豊富な清少納言はそれって函谷関の鶏鳴のことでしょ?と返した。
函谷関の鶏鳴というのは中国の故事で、捕まった孟嘗君が逃げる際に鶏が鳴かないと開かない門を従者に鶏の鳴き声を真似させて上手く逃げたという話。
あなたに逢う為の逢坂の関ですよと弁明を続けた行成に返したのがこの歌。要は腹を立てた女がもう会ってあげないからと男を突っぱねてる。
第63番
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで 言ふよしもがな
現代語訳
今はもう あなたとの恋は諦めた その一言を
直接逢って伝えたい ただそれすらも叶わない
作者
左京大夫道雅 (992年-1054年)
解釈
ちょうど自分が生まれる千年前に生まれた藤原道雅。そしてこれは伊勢の斎宮だった当子内親王との悲恋の歌。
禁断の恋が発覚した際は既に斎宮は退任していたけど、斎宮というのは天照大御神に仕える神聖なる巫女で恋愛は厳禁。その密通を知った内親王の父三条院は激怒し、内親王は見張り付きの軟禁状態にされてもう道雅とは会えなくなって、そしてこの歌が詠まれた。その後の二人も悲劇的で内親王は出家するも若くして亡くなり、道雅は目も当てられないほど荒れてしまい、殺害事件にも関与してしまう。
会うことを禁じられ、もう恋を諦めたというのに、さよならさえ直接言えないという悲しい歌。
第64番
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
あらはれわたる 瀬々の網代木
現代語訳
朝が近づき 宇治川の霧も晴れてきて
顔を出すのは 川瀬の網代木
作者
権中納言定頼 (995年-1045)
解釈
網代木(あじろぎ)というのは冬場に行われる漁の仕掛けの為に打たれている杭のことで、川の浅瀬に並んだ無数の網代木は宇治川の風物詩だったらしい。
冬の夜明けにじっと朝霧に包まれていた宇治川を見ていたら、徐々に霧が晴れ姿を表す網代木のある情景。まるで絵画の印象派のような歌。
第65番
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを
恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
現代語訳
恨むことにも疲れ果て 着物の袖は涙で乾かず それでも朽ちず残っているが
恋の噂で朽ちていく わたしの名をただ惜しく思う
作者
相模 (生没年不詳)
解釈
もう相手を恨む気力さえないけど、泣きっぱなしで袖は乾くことがない。そして何よりこの恋の噂(フラれたらしいとかそういうの)で汚名を着せられていく自分の名が惜しいと。
辛いことだらけのこの歌を詠んだ相模の名の由来は相模守の大江公資の妻になったことから。元々嘆き悲しむ歌が多めの女流歌人。
第66番
もろともに あはれと思へ 山桜
花よりほかに 知る人もなし
現代語訳
わたしがそうであるように わたしのことも愛しく想え 山桜
おまえの他に 知るものもいない
作者
前大僧正行尊 (1055年-1135年)
解釈
修験道の修行の為に山に入った僧が詠んだ歌。孤独ではあるけれど、その山の中での静かで美しい情景が思い浮かぶ。
修行で得た霊力を使い天皇の病気を治したりしていたので、公家からの信頼も厚かったらしい。
第67番
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に
かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
現代語訳
春の夜の夢のように 儚いあなたの腕枕のため
浮き名を立てはしませんよ
作者
周防内侍 (1037年-1109年)
解釈
二条院に女房達が集まり夜更けまで話をして盛り上がっていたところ、周防内侍が眠くなったのか枕が欲しいと呟くと、御簾(すだれのこと)の下から男が腕を伸ばしてきた。(伸ばしたのは定家の曽祖父にあたる藤原忠家)
腕枕をしますよ、つまり一夜を共に過ごしましょうというお誘いに対してこの歌が詠まれた。男性からの誘いを上手く断っている。
現代に置き換えると下品な場面になりそうだけど(特に男性側)、この時代は誘い方も断り方も雅で良い。
ちなみにここでの儚いは、無益だとかあてにならない等のネガティブな意味。
第68番
心にも あらでうき世に ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな
現代語訳
心にもなく 辛い世を生き長らえれば いつかはきっと思い出し
恋しくなるに違いない この夜に浮かぶ美しい月を
作者
三条院 (976年-1017年)
解釈
この歌も第50番と同じくらい好きだけど、定家が選びそうにない部類の歌。でもどうやらそれには理由があるようで、この歌を詠んだ三条院が藤原道長からの圧力で退位を余儀なくされたことと、定家が仕えていた後鳥羽上皇が承久の乱(変)で敗れた姿が重なったのではないかとされている。
生きるのは辛いけど、生き続けていれば、いつかこの月を懐かしく、愛おしく想う日が来るだろう。だから…といった感じの歌。
第69番
あらし吹く み室の山の もみぢ葉は
竜田の川の 錦なりけり
現代語訳
風が吹き 三室の山の 紅葉落ち
竜田川には 錦が敷かれる
作者
能因法師 (988年-1050年または1058年)
解釈
ちはやぶるでも詠まれていた紅葉の名所である竜田川が真っ赤に染まる情景がこの歌でも詠まれている。
三室の山は奈良県高市郡にある山のことでここも紅葉の名所。竜田川は三室の山の東を通って大和川に繋がっている。
錦に例えられるほど美しい紅葉が目に浮かぶ歌。
第70番
寂しさに 宿を立ち出でて ながむれば
いづこも同じ 秋の夕暮れ
現代語訳
孤独に駆られ 家を飛び出て 辺りを眺めてみたけれど
どこも同じ 秋の夕暮れ
作者
良暹法師 (生没年不詳)
解釈
比叡山の僧だったが、晩年は雲林院で過ごした良暹法師。大勢の修行僧がいる比叡山に比べると雲林院はとても静かで寂しかったと思う。
秋の夕暮れで結ぶのは和歌ではよくあるけど、この歌はその秋の物寂しさを上手く表現していると思う。どんなに寂しくたって、どこにいたって、日は暮れて一日は終わる。
名こそ惜しけれというのは日本人が昔から持つ美学だと思うけど、最近はそれが薄れてきているような気がしなくもない。
書き続けていれば進むもので、あと3記事で終わり。