百人一首 現代語訳 91番~100番

第91番

後京極摂政前太政大臣ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん (1169年-1206年)

きりぎりす 鳴くや霜夜しもよの さむしろに
衣かたしき ひとりかも寝む

現代語訳
こおろぎが 鳴く霜の降る 寒い夜に
衣一つで 独り寝るのか

【解説・鑑賞】
きりぎりすは現在のコオロギのこと。今も変わらず秋の風物詩であるようにこれも秋の歌。
後朝の元の漢字である衣衣という字からもわかるように、男女が寝る際はお互いの衣を広げ重ねて寝ていた。衣かたしき、つまり片方だけ敷くというのは相手がいないということ。さむしろは衣の下のむしろという敷物と、寒しの掛詞になっている。
要するに、相手のいない寒い秋の夜に一人で眠らなければいけない寂しさが詠まれている。

藤原良経は十代の頃から活躍した歌人。定家の父である俊成に歌を学び、定家の支援者でもあった。

第92番

二条院讃岐にじょういんのさぬき (生没年不詳)

わが袖は 潮干しほひに見えぬ 沖の石の
人こそ知らね 乾くまもなし

現代語訳
我が袖は 潮が引いても 海中に 沈み見えない 沖の石
人は知らずも 涙乾かず

【解説・鑑賞】
散々出てきた袖濡らすシリーズもこれで最後。海底にある石が水に隠れて見えないように、人に知られてはいないが私の袖は涙で乾く間もないと。
和泉式部の本歌取りで、おそらく秘密の恋の歌。人こそ知らねの人を世間と捉えるか、あの人と捉えるかで意味が違ってくる。後者だと片思いの歌。

二条院讃岐は父・源頼政の死後に遊女になったという説があり、「沖の石」がいつも濡れていることから、後に女性のアレの隠語として扱われるようになる。

第93番

鎌倉右大臣かまくらのうだいじん (1192年-1219年)

世の中は つねにもがもな なぎさこぐ
あまの小舟をぶね綱手つなでかなしも

現代語訳
世界には ずっと変わらず いてほしい
波打ち際を 漕いでゆく 漁師の小舟が 綱を引く 

その姿すら 愛おしいから

【解説・鑑賞】
あまりに平和な時間が流れていると、ずっとこのままならいいのにな…と思うことがあるように、この歌もそんな心情で詠まれたのではないかな。慈しみであり、尊い感情。

源頼朝と北条政子の次男であり、鎌倉幕府第3代征夷大将軍の源実朝。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも心優しい青年として、また同性愛者として描かれていたが、その説を支持する学者・研究者は少なくない。
こんな優しい歌を詠み、歌人としての評価も高かったが、甥である公暁に暗殺されて死亡するという悲劇的な最期を迎える。

第94番

参議雅経さんぎまさつね (1170年-1221年)

み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて
ふるさと寒く 衣うつなり

現代語訳
吉野の山 秋風吹いて 夜更けて
ふるさと寒く 衣打つ音

【解説・鑑賞】
み吉野のみは美称で、衣を打つというのはアイロンのない時代に使われていた砧(きぬた)というハンマーのような道具で衣のシワを伸ばすこと。夜になるとあちこちの民家から砧の音が聞こえていたらしく、多くの和歌や浮世絵に登場する。

飛鳥井雅経は蹴鞠の家元である飛鳥井家の祖。飛鳥井家で祀られていた精大明神は、現在ではサッカーだけでなく球技全般の神様として扱われている。

第95番

前大僧正慈円さきのだいそうじょうじえん (1155年-1225年)

おほけなく うき世の民に おほふかな
わが立つそまに すみぞめの袖

現代語訳
身の程も わきまえないで 辛き世を 生きる人々 覆いたい
比叡山から 墨染の袖で

【解説・鑑賞】
わずか13歳で出家し、天台座主(天台宗の総本山である比叡山延暦寺の頂点)を四度歴任した僧。開祖である最澄の「私が立つ比叡山にご加護を与えてください」という歌を踏まえて詠んでいると思われる。
杣は伐採地の山林のことでここでは比叡山を指す。墨染は僧侶が着る衣のこと。この憂き世を仏の力で包み込みたいという切実な願いが込められた歌。

藤原忠通の子とあって出家をしても政治とは無縁の生活は送れず、そして平安末期という混乱の時期を生きた慈円だからこそ響くものがある。

第96番

入道前太政大臣にゅうどうさきのだいじょうだいじん (1171年-1244年)

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
ふりゆくものは わが身なりけり

現代語訳
花誘う 嵐の庭が 雪のよう
散っているのは 我が身なのだが

【解説・鑑賞】
嵐に誘われて散っていく桜の運命のように切ないのは人の命。だがたとえ花のように美しく生きて散ったとしても、人の命が再び咲くことはない。
まるで雪のように桜が降る庭で、古(ふ)る=老いて死に近づいた自分自身を見つめるというのは、いったいどんな気分なのだろうか。

西園寺公経は定家の義弟。承久の乱(変)の際には幕府側に情報を漏らし、それを功績として出世を重ねた人物。

第97番

権中納言定家ごんちゅうなごんさだいえ (1162年-1241年)

こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くやもしほの 身もこがれつつ

現代語訳
あの人に 松帆の浦の 夕凪に
焼かれる藻塩もしお みたいに焦がれる 

【解説・鑑賞】
百人一首選者である藤原定家自身の歌で、恋する海辺の少女の目線で詠まれている。
まつほの浦は淡路島にある松帆の浦と待つが掛かっている。夕凪は夕方に訪れる無風状態のこと。藻塩というのは海藻を焼いて作る製法の塩で、塩が焦がれるのと恋が焦がれるのが重なっている。
あの人が来ることをずっと待っているのに来てくれないままで、恋焦がれ続けている状態。これまで沢山の歌でも詠まれてきたが、やはり待っている方は辛い。

「美の鬼」と呼ばれることもあるほど、彼の美への執念は晩年になっても衰えることはなかった。彼自身が更に注目される時が来ても不思議ではない。

第98番

従二位家隆じゅにいいえたか (1158年-1237年)

風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
みそぎぞ夏の しるしなりける

現代語訳
そよ風が 楢の葉揺らす 上賀茂の 小川の夕暮れ 秋模様
六月祓みなづきばらえ  だけが夏の 証であった

【解説・鑑賞】
藤原家隆もまた定家の父親である俊成に和歌を学んだ。寂蓮の家に婿入りしたとも言われている。

楢の木と掛かっている「ならの小川」は京都の上賀茂神社の境内を流れる御手洗川のこと。みそぎはその御手洗川で行われる六月祓で、上半期で付いた穢れを祓う行事。旧暦6月30日に行われていたので新暦に置き換えると8月上旬となる。
現代よりずっと涼しい時代に、秋の気配を感じながらも、行事によってまだ夏なのだと気付いたという内容。

第99番

後鳥羽院ごとばいん (1180年-1239年)

人もをし 人も恨めし あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は

現代語訳
人間は 愛おしくあり 恨めしくもある
つまらない
この世について 悩むからこそ 悩みは尽きず

【解説・鑑賞】
平安時代末期、源平の戦いが始まった年に生まれた後鳥羽天皇。権力が貴族から武士へと移り変わる激動の時代の中で、神器無しの即席のような形で即位することになり、定家も彼に仕えた。
すべては朝廷・貴族の復興のためだったのだろうが、強行的な政治姿勢を取り続け、最終的には承久の乱(変)で破れ、流刑地である隠岐島にて没した。

をし=愛しで、あぢきなくは味気無いと同義。この世を生きる全ての人にとっても真理であり、哲学的な儚さを感じる歌。

第100番

順徳院じゅんとくいん (1197年-1242年)

百敷ももしきや ふるき軒端のきばの しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり

現代語訳
宮中の 古びた軒端 から垂れる 忍ぶ草見て
懐かしむ 古き良き日々 昔のことを

【解説・鑑賞】
最後を締めくくるのは後鳥羽上皇の第三皇子であり、第84代天皇の順徳天皇。貴族の時代の終焉を目前に、栄華を誇っていた日々を懐かしく思い出している。
百人一首には(源実朝を除けば)武家の歌はなく、ほとんどが平安貴族によって詠まれた歌。最後にこの歌を選んだ定家にどんな意図があったかはわからないが、厳選した和歌を通じて貴族文化の良き部分(美しさや輝き)を後世に残したかったのではないかと思う。

忍ぶ草はノキシノブのことで、廃墟などによく垂れ下がっている植物。否が応でも皇室や貴族の衰退が伝わってくる。
桜や紅葉を詠んだ華やかな歌集の最後にこの侘びしさ。だが終わりを感じさせるには最適な歌だったのかもしれない。


これにて百人一首現代語訳終了。
終えてみるととても勉強になったなと思う。改めて百人一首、古い和歌に触れて、歌意や技巧の素晴らしさに気付けたりすることができたし。
これは好きだなとか、美しいなと感じる歌はそこまで多かったわけではないんだけど、これは上手いな…と感嘆させられる歌はもう大量にあって、平安時代にどれだけ和歌が盛んで、なぜ素養の一つになり得たのかがはっきりと理解できた。
和歌だけでなく、この時代の随筆等もまた読み返すと面白そう。

とりあえず、ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございました。

さて、次は何を書こうか。

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