百人一首 現代語訳 1番~10番

カテゴリは前々から作っていたけど、和歌(百人一首)を現代語に訳していきます。
現代語訳といっても、普通の直訳文では面白くないから、韻文とまではいかなくても、なんとなくリズムを持たせることを意識して訳していこうかなと。
平安時代や鎌倉時代の古い歌の中にある古い言葉を、現代人でもわかるように置き換えていくと、どうしても5・7・5・7・7の中にある韻律や技法(修辞法)、掛詞や句切れ等は崩れてしまうんだけど、それをあまり気にせずに、場合によっては意訳を含めつつ、なんちゃって現代詩(もしくは自由律短歌)として楽しめるように、と試行錯誤してみます。
それとおまけレベルだけど、簡単な背景説明や解説も付けようかなという所存でございます。はい。

百人一首といえば、100人いれば120人は小倉百人一首を思い浮かべると思うけど、その小倉百人一首です。
一応説明しておくと、小倉百人一首は京都の小倉山の山荘で公家の藤原定家(ふじわらの さだいえ/ていか)が鎌倉時代初期に選んだ詞華集で、飛鳥時代から鎌倉時代までの百人の優れた歌人の和歌が一首ずつ選ばれている。
選者の藤原定家自身も歌人であり、若い頃は「新古今和歌集」や「新勅撰和歌集」の編纂に携わったり、先日僕も歩いた熊野への後鳥羽天皇の行幸に随行した際の「熊野御幸記」が国宝になっていたりと文化面において様々な活躍をした人物。
美への並々ならぬ執念を持っていたようで、この百人一首は彼の好んだ恋と秋の歌が多いのが特徴。その2種類の歌だけで半分以上になるほどには。

一千年近くも昔の歌ばかりだから、より理解しやすくするために時代背景等色々と説明すべきかなと思うけど、説明すべき点が多過ぎてキリがないので二点だけ。

まずは、和歌を詠むということがいかに重要な意味を持っていたか。
男であれ女であれ、当時は和歌が作れるというのが素養の一つで、それ故多くの場面で自然と詠まれてきた。
出会いの喜びや別れの悲しみ、月を見て綺麗だと思ったとき、四季折々の情景に浮かぶ感情。今では信じられないが、異性へ求愛する際も和歌が用いられて、ありとあらゆる心を詩で表現するという美しい時代があった。
和歌だけでなく、楽器を演奏したり、花見や月見をしたりと、昔の日本人(特に平安貴族)の風流っぷりは実に美しく、華やかだ。

そして、後朝について。
平安時代の恋愛スタイルはいわゆる通い婚。夜になると男性が女性の元へと通い、それぞれ着ていた衣を重ねて共寝して、まだ暗い早朝には帰るというのが一般的だった。
その一夜を共に過ごし、重なり合っていた衣と衣が別れの際に別々になる様を衣衣(きぬぎぬ)と言い、そこから翌朝の別れのことを後朝(読みは同じきぬぎぬ)と呼ぶようになった。
その後朝の後に「後朝の文」または「後朝の歌」として手紙や歌を送り届け、相手への想いを伝えるというしきたりの中で、多くの名歌が生まれ、百人一首の中にもいくつも選ばれている。
現代とは違う、恋人同士でさえ自由に逢うことができない時代。太陽の下でのデートも、同棲もできないし、もちろん携帯だってない。
一緒に過ごした夜が明けてしまう前の空に浮かぶ有明の月を眺める、これからの会えない時間に胸が張り裂けそうになりながら帰路に就く男性がいれば、愛する人が去った部屋であの人はまた自分に逢いに来てくれるだろうかと不安に駆られる女性もいた。
そうした今とはまったく違う男女の在り方を想像してみると(それでも恋しい相手を想う気持ちは時代を越えて共感できる)恋の歌が多い百人一首をより一層楽しめるかもしれない。

とまあ、そんな感じです。それでは10首ごとに10回に分けて訳していきます。古の雅に負けぬよう。


第1番

天智天皇てんじてんのう (626年-671年)

秋の田の かりほのいほとまをあらみ
わが衣手ころもでは 露にぬれつつ

現代語訳
秋の田の 仮小屋の中 屋根の下
わたしの袖は 夜露に濡れて

【解説・鑑賞】
大化の改新を中臣鎌足と共に成し遂げた中大兄皇子として知られる天智天皇の歌。

田んぼの近くに作った簡素な小屋の中で、獣等が荒らしに来ないか、秋の夜更けに一人きりで見張りをしている。だが屋根代わりに使っている苫(草で編んだ敷物)の編み目が荒いので、夜露が滴り落ちてきて衣の袖が濡れているという情景が浮かんできて、深い夜と静かな息遣いが聞こえてくるような歌になっている。
万葉集では詠み人しらずとして掲載されており、元は農民の歌だったという説もあるが、天皇が農民の気持ちを想像して詠んだ歌という意見もある。

ちなみにこの第一首目を詠んだ天智天皇が飛鳥から近江に遷都されたという縁で、聖地として近江神宮では毎年重要な競技かるたの大会が開催されている。

第2番

持統天皇じとうてんのう (645年-703年)

春すぎて 夏にけらし 白妙しろたへ
ほすてふ あま香具山かぐやま

現代語訳
春過ぎて 夏が訪れ 純白の
衣干すのは 天の香具山

【解説・鑑賞】
持統天皇は天智天皇の娘で、天智天皇の弟の大海人皇子(後の天武天皇)の皇后となり、天武天皇の死後には自ら治世を果たした女性。

この時代に用いられていた陰暦では夏が来るのは今の四月なので、現代の季節感からすると冬が去った後の春の到来と捉えてもいいかもしれない。しっかり暖かさを感じられるようになってきた、くらいの感覚で。
香具山に天が付くのはこの山が天から降ってきたという伝承から。初代天皇の神武天皇が即位した(奈良県)橿原に存在し、古の時代から太陽信仰の対象として神聖視されていた大和三山の一座。
夏になるとその天の香具山は白妙(真っ白な布)の衣を干すという言い伝えもあったようで、新緑の季節に太陽に照らされて眩しい香具山を眺めている様子が想像できる。

第3番

柿本人麻呂かきのもとのひとまろ (生没年不詳)

あしびきの 山鳥やまどりの尾の しだり尾の
ながながし夜を ひとりかも寝む
 
現代語訳
山鳥の 垂れ下がった 尾のように
長々し夜を ひとりで眠る

【解説・鑑賞】
作者の柿本人麻呂は複数の天皇に仕え、天皇や皇子のそばで讃歌や挽歌(哀悼歌)を詠み続け、後に歌聖として崇められるようになった宮廷歌人。
恋歌では恋愛や性的な表現(この時代の逢う=体を重ねる)より、夫婦という形を重視した人らしく、この歌は、どこか遠くへ来ていて愛する妻と離ればなれになっている寂しくて長い夜をひとりで眠らなければいけない悲しみを詠った歌だと思う。
山鳥は夜の間は雄と雌が峰を隔てて寝ると言われていた鳥。あしびきは山鳥に掛かる枕詞で、ひとりかものかもはひとりの強調。

第4番

山部赤人やまべのあかひと (生没年不詳)

田子たごの浦に うちでて見れば 白妙しろたへ
富士の高嶺に 雪はふりつつ
 
現代語訳
田子の浦から眺めれば 真っ白の
富士の高嶺に 雪降り続く

【解説・鑑賞】
柿本人麻呂と並び万葉集時代に活躍した歌人で、二人の頭文字を取って「山柿(さんし)」と呼ばれ、彼もまた歌聖として崇められた。三十六歌仙の一人でもある。
白妙のと衣に例えてはいるが、歌の意味はもうそのままだと思う。叙事的な冬の歌。しかし実際は田子の浦(静岡の海岸)からは離れすぎていて、富士山頂に雪が降る様子は見えるわけがないが、歌の中ではしんしんと降り続く情景が描かれている。

第5番

猿丸太夫さるまるだゆう (生没年不詳)

奥山に もみぢ踏み分け 鳴く鹿の
声聞く時ぞ 秋は悲しき
 
現代語訳
山奥で 紅葉踏み分け 鳴く鹿の
声聞く時こそ 秋は悲しい

【解説・鑑賞】
解説やルビ無しでも現代人にも理解しやすい歌じゃないかな。人里離れた山の奥深くで、一面の紅葉を踏み分けながら鳴いている鹿の、その物悲しい鳴き声を聞いているときこそ、秋の悲しみは感じられると。うん、そのまま。正直、聞く時ぞも悲しきも変えなくていい気がした。
秋の鹿の鳴き声は、雄鹿が雌鹿を探し求めて鳴く声と言われていたようで、紅葉と共に秋の歌にはよく登場する。
秋深まった山の中を一人歩いているときに、寂しげな鳴き声が聞こえ、その声の主である鹿を目撃する光景を想像してみると神秘的だ。声だけでも悪くないが。

猿丸大夫は弓の名手として活躍したという伝説は数多く残されているが、名前や生没年等いろいろと謎の人物。もしかすると実在しなかった可能性もある。

第6番

中納言家持ちゅうなごんやかもち (718年-785年)

かささぎの 渡せる橋に おく霜の
白きを見れば 夜ぞふけにける
 
現代語訳
かささぎが 架ける橋へと 降る霜の 
白さを見れば 夜は更けゆく

【解説・鑑賞】
一年に一度七夕の夜にだけ天の川を渡って織姫と彦星は逢えるというのはよく知られているが、その天の川にカササギたちが翼を並べて橋を架けるという話はあまり知られていない。
この歌は夏の歌ではなく、白い吐息が出るような冬の寒い夜に、ふと空を見上げたら、まるで霜が降りているように天の川の星々が白く輝いていた、といった歌かな。その白さを見ていると夜は更に深くなると。
当時の宮中にあった御殿と御殿に架けられた橋に霜が降りていて、それをカササギが渡した橋に例えたという説もあるが、個人的には星空の方が好き。
電気もない時代だからこそ、今よりもずっと夜空は綺麗だっただろうし、特に冬の澄んだ空気で見る満天の星空はさぞ素敵だったに違いない。

中納言家持こと大伴家持は万葉集の編纂者の一人とされている。その万葉集には自身の歌が最多の473首も入っていて、全体の一割を越えているほど。あっ…。

第7番

安倍仲麿あべのなかまろ (698年-770年)

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に でし月かも
 
現代語訳
天空を 仰いで見れば 春日にて
三笠山に浮く あの月なのか

【解説・鑑賞】
阿倍仲麻呂は遣唐使として若くして唐に渡り、科挙という官僚の難関試験にも合格し、唐の第九代皇帝玄宗に仕えた人物。
この歌は唐に渡ってから三十五年が経過して、ようやく日本へ帰国できることになり、唐の友人達が開いてくれた送別会で詠んだ歌。
きっとその時の空には月が浮かんでいて、十代の頃に見た故郷奈良の春日にある三笠山の上に出ていた月と重ねながら、これから帰る懐かしい母国への想いを馳せていたのだと思う。
だがこの話には続きがあり、阿倍仲麻呂が乗った日本への船はなんと難破してしまう。なんとか一命は取り留めたものの、その後も日本への帰国は叶わず、結局唐で生涯を終えることになった。その背景を理解した上で改めてこの歌を鑑賞してみると非常に切ない歌。歌だけでも帰国できてよかったが。

第8番

喜撰法師きせんほうし (生没年不詳)

わがいほは 都のたつみ しかぞすむ
世をうぢ山と 人はいふなり
 
現代語訳
我が庵は 都の東南 しんと棲む
世を憂き宇治山 人はそう言う

【解説・鑑賞】
喜撰法師は平安初期の憎らしいが、その正体は不明。しかも本人作とされる歌は二首しか残っていないのに、六歌仙の一人だったりするからもう本当に謎の人物。紀貫之の変名といった説もあるが、現役時代から神出鬼没で伝説的な存在だったのかもしれない。

この歌は上の句で、自分の庵は都の辰巳の方角(東南)にあって、そこで(鹿のように)静かに暮らしていると説明した後に、下の句で宇治と憂じの掛詞を使い、自分が世を憂いて宇治山に住んでいると人は言っていると上の句と対比する形で、勝手にいろいろと言われているけど、自分の望むままにここに暮らしているんですよと詠んでいる。わかりやすく言えば「余計なお世話ですから…」ということかな。

——うん、韻文を散文にするとせっかくのリズムが台無しになるように、こういった上手い掛詞を分解するとその技術が伝わらなくなるな。仕方ないけど。

第9番

小野小町おののこまち (生没年不詳)

花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
 
現代語訳
桜の花 色褪せてゆき 長雨を 眺めている間に
わたしの身にも その時が来た

【解説・鑑賞】
かの有名な小野小町の歌。百人一首に興味が無い現代人でも一度は名前を聞いたことがあるほどの知名度こそあるが、本名や生没年等後世に残っている情報は少ない。

自分を花(この時代の花=桜)に例え、長い雨をぼんやりと見つめている(人生の酸いも甘いも経験している)間に、桜の花の色が色あせてしまったように、いつの間にか自分の美も衰えてしまった…と哀しみが伝わってくる歌。
絶世の美女として生きたからこそ、時が流れ、その美貌を自分が失っていく辛さは人一倍あったはず。美人だったからこそ詠めた歌かな。
それにしても、桜と雨の組み合わせはずるい。この歌を詠んだ時の小野小町の容姿が既に衰えていたとしても、この歌は間違いなく美しい。ふる=降雨と加齢、ながめ=長雨と眺め、と掛詞も見事だし、ただの美人ではない。

——現代語訳はもはや短歌ではなくなったが、こういった掛詞と戦うにはリズムを持たせた現代語で同じ空気感を再現しなければならない。

第10番

蝉丸せみまる (生没年不詳)

これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも あふ坂の関
 
現代語訳
行き帰り 知人他人も 逢い別れ
これこそまさに 逢坂の関

【解説・鑑賞】
蝉丸もまた正体不明の人物。坊主かどうかもわからないのに坊主姿で描かれることが多いので、坊主めくりという遊びでは蝉丸ルールなるものが地方によっては存在するらしい。いわゆるトランプのジョーカー的扱い。
盲目で琵琶の達人だったという説もあるが、ただハゲているだけのおっさんとして描かれることもあり、その扱いからはどうもネタ枠感が拭いきれない。
これやこのは最後の逢坂の関に掛かる。その逢坂の関は現在の滋賀と京都の境にあった関所のことで、そこから東は東国とされていた。
都へと上る人下る人、知っている人も知らない人も、出逢いがあって別れがある。そして始まりがあって終わりがある。人生の儚さすら感じさせる歌。ネタ枠なのに。


まずは10番まで終了。とりあえず、ここまでの歌というか、歌人への印象を一つ述べておくのなら、正体不明の人物多過ぎ。

このブログにはコメント欄を設置していないので、読んでくれる人がどんな感想を抱いているかはメールでも貰わない限りわからないんだけど、
まあ、「和歌なんてわけがわからないよ!」ってな状態の初心者でも、「へー、こんな感じの歌だったんだ」となんとなくでいいから理解してもらえたら、一人の和歌好きとしては満足なのかもしれない。

次は11番から20番まで。長々とお付き合いください。


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