百人一首 現代語訳 11番~20番

第11番

参議篁さんぎたかむら (802年-853年)

わたの原 八十島やそしまかけて でぬと
人には告げよ あまのつり舟
 
現代語訳
海原に浮かぶ島々を目指した
舟出と伝えよ漁師の釣り舟

【解説・鑑賞】
参議篁こと、小野篁は詩の才能にも学問にも優れていたが、正直者すぎるがゆえに、遣唐使に選ばれても大使の藤原常嗣と揉め事を起こし乗船拒否したり、天皇の怒りを買って官位剥奪され流罪になったりと、いわゆる問題児だった人物。
後にその才能を惜しまれて、罪を赦され都に戻り、病に倒れるまで出世を続けることにはなるんだけど、彼の人生は波乱に満ちていた。地獄と繋がりがあったとも言われるくらいには。

この歌は、流罪となって、隠岐へ向かう際に詠んだ歌とされている。
今後都へ戻れる保証はこの時点ではないので、罪人として都を離れるということは、孤独で不安な舟出だっただろうし、大切な人との別れもあったに違いない。
隠岐諸島へ向かいながら、これからどうなるのかという不安や身近な人々と離れていく寂しさを抱える舟上で、強がりながら「私は望んで島へと行くのだ」と都にいる人々に告げてくれというメッセージを、どう考えても都へ何かを伝えられるすべなど持たない漁師が乗った小さな釣り舟に語りかける姿はとても悲しげで、自分の乗った舟が流刑地へと進むにつれ、その釣り舟すら遠く離れていく大海原での情景が想像できる歌になっている。 

第12番

僧正遍昭そうじょうへんじょう (816年-890年)

あまつ風 雲のかよひ 吹きとぢよ
をとめの姿 しばしとどめむ
 
現代語訳
天の風 雲の通り路を塞げ
乙女の舞を しばし留めよ

【解説・鑑賞】
遍昭の俗名(出家する前の名)は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。あの小野小町とも噂があった遊び人で、仁明天皇の蔵人(今でいう秘書)から出世を重ねるが、その仁明天皇の崩御を機に突如出家した。

これは新嘗祭の翌日に宮中で行われる豊明節会で詠まれた歌。儀式では五人の未婚の美女が舞を披露し、その美女たちは五節の舞姫と呼ばれていた。
舞姫を天上界に住む天女に見立て、雲の中には天上と地上を繋げる路があり、そこを天女たちが行き来すると考えられていたので、大空を吹き渡る風に、雲を吹き飛ばしてその通り路(帰り路)を閉ざしてくれ、美しく舞う乙女たちの姿をもうしばらく見ていたいから、と呼び掛けている。
紀貫之に「雰囲気は良いが現実味がない」と評された遍昭の歌だけど、裏を返せば幻想的だと受け取れなくもない。

ちなみに百人一首の作者名は基本的に最終的な名前や身分が記載されるので、この歌は出家する前に詠んだ歌みたいだし、「煩悩に負けてんぞこの生臭坊主」と責められるのは風評被害。

第13番

陽成院ようぜいいん (869年-949年)

つくばねの 峰より落つる みなの川
こひぞつもりて ふちとなりぬる
 
現代語訳
筑波山 峰から落ちる 男女川
恋は積もって 底さえ見えず

【解説・鑑賞】
権力争いによるでっち上げという可能性も大いにあるが、殺人事件に関与したとして天皇から退位されられる(表向きには病気による自発的な退位)という騒動もあって、暴君だったと言われている陽成天皇。
退位後には歌合を催したりと和歌に没頭したらしいけど、自身の歌として残っているのは後に后となる綏子内親王に詠んだこの一首のみ。

筑波嶺(つくばね)とは茨城県にある筑波山のことで、山頂が男体山と女体山に別れている。男女が求愛の歌を詠み交わしては自由に性行為をするという豊作祈願の古代の行事「歌垣」が行われていた場所として有名。
みなの川(漢字で書くと男女川)はその二つの山の峰から流れ落ちている川で、時間を掛けて川の流れが淵(水が溜まって深くなっている所)となるように、自分の恋心・想いも積もりに積もって淵となったのだと歌う、純粋というか、どこか人柄も伝わってくる直情的な歌。

第14番

河原左大臣かわらのさだいじん (822年-895年)

陸奥みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに
乱れそめにし われならなくに
 
現代語訳
陸奥のしのぶずりの乱れ模様
誰のせいで心も乱れる 私のせいではないというのに

【解説・鑑賞】
しのぶもぢずりとは「もぢずり」や「しのぶずり」とも言われ、陸奥国(現在の東北)の信夫郡(福島県福島市)で行われていた、大きな石の上に布を置いて、忍草の汁を小さな石で擦りつけてねじれたような模様にする染め方のこと。
もぢずりの模様のように、私の心が乱されるのは誰のせいか、私のせいではないのに。というのはつまり、他でもなく、あなたのせいでこんなに気持ちがかき乱されているのです、と相手のつれなさや恋の不安を詠んだ歌。

河原左大臣こと源融(みなもとのとおる)は光源氏のモデルの一人。嵯峨天皇の十二番目の皇子として生まれたが、後に臣籍に下って源氏の姓を受けた。
天皇になれなかった悔しさの反動なのかはわからないが、庭園や邸宅造りに力を入れて、河原左大臣と呼ばれる要因である河原院を造営したり、平等院の一部も元は源融の別荘地だったりする。

第15番

光孝天皇こうこうてんのう (830年-887年)

君がため 春の野にでて 若菜つむ
わが衣手ころもでに 雪はふりつつ
 
現代語訳
君のため 春の野に出て 若菜摘む
わたしの袖に 雪降り積もる

【解説・鑑賞】
現代語訳が不要なほど、現在でも使われている言葉ばかりで構成された歌。

光孝天皇は、陽成天皇が退位させられて、55歳にしてようやく天皇に即位した。(藤原基経の手腕で即位したので、ここから藤原氏の摂関政治が始まるんだけど)
よく知られている逸話に、不遇の時代を忘れぬようにと、自分が炊事をしていた黒いススがこびりついた部屋をそのまま残しておいた、というものがある。とても温厚な性格だったらしく、この若い頃に詠まれた歌からも優しさが伝わってくる。
若菜、つまり七草を送る際にこの歌を添えたらしく、相手の長寿を願うために寒さも気にせず熱心に若菜を摘んでいる姿が思い浮かぶ。

第16番

中納言行平ちゅうなごんゆきひら (818年-893年)

立ち別れ いなばの山の 峰にふる
まつとし聞かば 今帰り来む
 
現代語訳
お別れし因幡の国へ行きますが 峰に立つ松のように
私を待つと聞いたなら すぐに帰って参ります

【解説・鑑賞】
後に中納言まで昇進する在原行平(業平の異母兄)が、因幡国守(今の鳥取県東部)に任命され、その送別の宴で詠まれた一首。
「まつ」は待つと松の掛詞になっている。別れの歌ではあるが、あなたが私の帰りを待っていると聞けば今すぐにでも帰って来ます、と詠んでいて、再会を誓う歌でもある。
この歌を紙に書いて、逃げ出した飼い猫の食器に貼っておく(伏せたお皿に入れる)と戻ってくるというおまじないがあることからもわかるように、現代まで人々に親しまれ続けている歌。

第17番

在原業平朝臣ありわらのなりひらあそん (825年-880年)

ちはやぶる 神代かみよもきかず 竜田川たつたがは
からくれなゐに 水くくるとは
 
現代語訳
神々の 時代でさえも 聞きはせず
真っ赤に染まる 竜田川など

【解説・鑑賞】
漫画からアニメ化や広瀬すず主演の実写映画化とメディアミックスも人気を博した『ちはやふる』の影響で、間違いなくここ十年近くで最も注目された和歌。
ちはやぶるというのは神に掛かる枕詞で勢いが激しいという意味。竜田川は奈良にある紅葉の名所で歌枕。からくれは鮮やかな紅色で、水くくるとはしぼり染めのこと。
倒置法や擬人法も使われているので、更にわかりやすく訳すと、「幾多の不思議な出来事が起こった激動の神話の時代でさえ聞いたことがない。降り積もった紅葉によって、竜田川の水が鮮やかな紅色に染め上げられるなんて」といった一首。今まで一度も見たことがなかった美しい紅色に染まった景色、花筏ならぬ紅葉筏への驚嘆が伝わる歌になっている。

在原業平は日本の歴史上でもトップクラスのプレイボーイ。美男子で歌も上手く、伊勢物語の主人公のモデルとも言われている。
この歌は屏風歌で、実際にこの光景を目にしたわけではなく、後に清和天皇の皇后になる二条后(にじょうのきさき・藤原高子)の屏風絵を詠んだもの。
父方をたどれば平城天皇の孫、母方をたどれば桓武天皇の孫と、とても血筋の良い家には生まれたが、苗字を与えられ皇族ではなくなった業平と高子とでは身分の違いがあり、駆け落ちまでしたが結局叶わなかった恋の相手への歌、という背景を知ると、この美しい歌にもどこか悲しみを感じる。

第18番

藤原敏行朝臣ふじわらのとしゆきあそん (生没年不詳)

住の江の 岸に寄る波 よるさへや
夢の通ひ 人目よくらむ
 
現代語訳
住の江の岸には波さえ寄るというのに
夢の中さえ人目を避けて あなたは逢いに来てはくれない

【解説・鑑賞】
住の江は今の大阪市住吉区の浜辺(住之江区ではない)。よるは寄ると夜の掛詞で、夢の通ひ路は夢の中で男性が女性へ逢いに行く路のこと。
この時代は、恋する相手が夢に出れば出るほどその相手から愛されているとされる考えがあり、そして通い婚ということを踏まえて、男性が女性の家に通ってこなくなり、おまけに夢の中でさえ現れなくなったという状況が浮かぶ。つまり、私への恋心はもう冷めてしまったんだ…という悲しみ。
作者は男性だが、女性目線に立って詠まれており、男性への想い・切ない女心を上手く表現している。

第19番

伊勢いせ (872年-938年)

難波潟なにはがた みじかきあしの ふしの
あはでこの世を 過ぐしてよとや
 
現代語訳
難波潟の葦の節の間のように
短い間でさえ逢えないままで 生きてゆけと言うのでしょうか

【解説・鑑賞】
難波潟は大阪湾の入り江のことで、葦(あし・よし)は干潟などに群生するイネ科の植物。ふしの間は葦の節と節の間とわずかな時間という意味の掛詞になっている。
昔も今も会えなくて辛い女性は存在するが、ほんの少しの時間ですら逢いに来てくれない焦れったさを、葦の節と節の間に例える中世の感性は目を瞠るものがある。現代は会えなかったら震えるのに。
紀貫之とも並び称される歌人だった伊勢は恋多き女性で、容姿も美しかったらしい。いったいどんな顔をしていたのだろうか。名前が伊勢なのは彼女の父である藤原継蔭が伊勢守だったことから。

第20番

元良親王もとよししんのう (890年-943年)

わびぬれば 今はたおなじ 難波なにはなる
みをつくしても あはむとぞ思ふ
 
現代語訳
これほどに想い悩めば もうどうなろうと同じこと
難波の澪漂みおつくしのように この身を尽くし あなたに逢いたい

【解説・鑑賞】
陽成院の皇子として生まれ、風流人でありながら、(相手の身分など問わず)色を好んだ元良親王らしく、これは宇多院の后との不倫が発覚した際に詠んだ歌。
禁断の恋が人々に露見し、謹慎の身になってしまい、相手に逢えなくなって苦しすぎる。でも、もうここまで追い込まれてしまったのだから、これからどうなったって、この身が果てたとしても、あなたに逢いたいと思う、という情熱的でありながら、半ば自暴自棄(破滅的)な想いが歌に込められている。きっと歌と同じ温度で実際に、叶わない恋に悶えていたのだろう。

みをつくしは澪標(船の道標として水の中に打たれる杭)と身を尽くしの掛詞。
うん、短歌の形式に収めるというこだわりを捨てれば、掛かった詞の両方を共存させ、韻を踏むことも可能だと気付いた。現代語訳での技法とまでは言わないが、選択肢としてはありだ。常に悩ましいけれど。


改めてこうして触れてみると、やはり恋の歌が多い。というか、多過ぎるくらい。しかし、それが自然なんだよな。
この時代は現代に比べると、恋愛が人生を占める割合、その重要性が高かったわけだし、逢って体を重ねることは最高の快楽であり、娯楽でもあっただろうから。
でも、恋に悩む乙女ではないので()個人的には、ちはやぶる~のような美しい景色が浮かんでくる歌が好き。
競技かるたを描いた『ちはやふる』もジャンルとしては少女漫画だけど、コテコテの恋愛ものではなかったので読みやすく、ダレるまでは途中まで追いかけていた。(2022年末に50巻で完結。正直その半分でもよかったと思う


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