百人一首現代語訳 21番~30番

第21番
今来むと 言ひしばかりに 長月の
有明の月を 待ち出でつるかな
 
現代語訳
今すぐ逢いに来るという あなたの言葉を信じたばかりに
秋の夜長の時は過ぎ  明け方の月を待つことになるとは

作者
素性法師 (生年不詳-910年)

解釈
第12番の僧正遍昭の子である素性法師。坊主の子は坊主であるべきという教育方針の元、若くして出家させられる。
これは、すぐに逢いに来てくれるとあなたが言ったから待っていたのに有明の月を見ることになった。つまり来てくれるのを待っていたら結局夜明けになってしまったという女性目線の歌。
長月=夜が長い秋のことなんだけど、選者の定家はこの歌を長い期間待ち続けていたら秋になってしまったという歌として捉えていたみたいだけど、個人的には一晩中待っていたのに結局来てくれずに朝になってしまったという一晩の出来事を詠んだものと捉えていいと思う。


第22番
吹くからに 秋の草木の しをるれば
むべ山風を 嵐といふらむ
 
現代語訳
吹けば 秋の草木を しおれさせる山風
またの名を 嵐と言う

作者
文屋康秀 (生年不詳-885年)

解釈
山に吹く激しい秋の風が草木を枯れさせれば、それが冬の到来を告げているのだとよくわかる。
少し意訳気味だからもっと忠実に訳すと、むべ=なるほどという意味で、下の句は「なるほど、だから山風を嵐と言うのだろう」という感じになる。
縦書きで書くとわかりやすいけど「山+風=嵐」という漢字による言葉遊びを織り交ぜた遊び心たっぷりな歌。
官位は低かったけど六歌仙の一人として歌人として活躍した文屋康秀。三河国に赴任する際には花盛りを過ぎて自信を失っていた小野小町を誘ったらしく、小野小町も好意的な返歌を送っているけどどうなったかはわからない。


第23番
月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ
わが身一つの 秋にはあらねど
 
現代語訳
月を眺めれば 何もかもが 悲しみを帯びる
わたし一人の為に来た 秋ではないのだけれど

作者
大江千里 (生没年不詳)

解釈
大江千里って現代の女の子にもいそうな名前だけど男性です。だからちーちゃんではなく、在原兄弟の甥っ子。
日本人として生まれ過ごしてきたなら、秋の夜空の月を見ながら感傷に浸るという場面はもう説明不要だと思う。切なく、そして美しい。
大江千里は漢詩を訳してそれを和歌にアレンジするというのが得意だったようで、この歌も元は白楽天という唐の詩人の詩とされている。でもその漢詩では私一人のために秋は来るとなっていて、こちらではその真逆になっている。実に日本人らしい感性だと思う。


第24番
このたびは ぬさも取りあへず 手向山
紅葉の錦 神のまにまに
 
現代語訳
この度はお供え物も用意出来ず 手向山の紅葉の錦を 持って参りました
神よ御心のままに どうかお受け取りください

作者
菅家 (845年-903年)

解釈
菅家は学問の神様として崇められる菅原道真のこと。彼が天神様として祀られる太宰府天満宮は毎年受験生で賑わう。でも菅原道真が大宰府へは濡れ衣を着せられて罪人として左遷されて来たのであって、失意のままにその地で没した。
彼の死後、疫病が流行ったり、醍醐天皇の皇子が病死したり、清涼殿に雷が落ちて多くの人が亡くなったりという事件が続き、菅原道真の祟りだと恐れた朝廷がその彼の怒りを鎮める為に建立されたのが太宰府天満宮。他にもいろいろと逸話に事欠かない人物。
シンプルに解釈すると、幣(神様へのお供え物)を用意することが出来なかったので、代わりに紅葉を受け取ってくださいという歌。
このたびのたびは旅と度に掛けていて、神のまにまには神の御心にお任せしますという意味。


第25番
名にしおはば 逢坂山の さねかづら
人にしられで くるよしもがな
 
現代語訳
逢坂山が名の通りなら 蔓をそっと手繰り寄せ
誰にも知られず あなたのもとへ 逢いに行きたい

作者
三条右大臣 (873年-932年)

解釈
フィッツジェラルド風に表現するならこの歌はもう「和歌的遊女」というほど様々な技術が使われている。
全部説明するとダレるから少しだけ説明すると、さねかずらはつる状の植物でありながら、小寝(共に寝ること)との掛詞になっている。逢坂山の逢も男女が寝ることとほぼ同義。くるよしもがなは(手)繰ると来るが掛かっている。
人目を忍ぶ恋ではやはりどうしても逢いたい気持ちが募る。逢坂山が名前負けしてないなら、人に知られずあなたのもとへと、つるを手繰りながら逢いに行きたい。
+肌を重ねたいという三条に邸宅があったからというだけの理由で三条右大臣と呼ばれていた人とは思えないどストレートな歌。


第26番
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
今ひとたびの みゆき待たなむ
 
現代語訳
小倉山の紅葉たちよ もしも心があるのなら
もう少しだけ散らずに耐え 御幸までは待っていてくれ

作者
貞信公 (880年-949年)

解釈
御幸は天皇の外出のこと。小倉山の美しい紅葉に、御幸の日までは散るのを待って生き延びてくれと呼びかけている歌。
あまりに美しい景色を見て、誰かにこの景色を見せたいと思う気持ちは現代のSNSで写真をシェアしたりするのと同じかな。いや、違うか…。
貞信公は藤原忠平のこと。藤原家繁栄への礎を築いた人とされている。


第27番
みかの原 わきて流るる 泉川
いつ見きとてか 恋しかるらむ
 
現代語訳
みかの原から 湧き流れるという 泉川のように
まだ見ぬあなたが こうも恋しい

作者
中納言兼輔 (877年-933年)

解釈
その人についての話は聞いていて存在こそ知っているがまだ一度も会ったことがない相手へ募る思いを、美しいとされる泉川に例えた歌。
昔は顔も見たことがない、一度も話したこともない相手へこうして恋するという状況はよくあったみたいだけど、現代ではどうだろう。
近そうなものなら、テレビに映るアイドルや女優に恋い焦がれたり、ネットで知り合った人が好きになったりとかそういうのかな。多分。  
ちなみに中納言兼輔は紫式部の曽祖父。才能は受け継がれるのか、名前が残る身分は限られているのか、この時代は(百人一首)は血の繋がりがある人達が大勢選出されている。


第28番
山里は 冬ぞ寂しさ まさりける
人目も草も かれぬと思へば
 
現代語訳
山里では 冬こそ寂しく 想うもの
人も離れて 草木も枯れて

作者
源宗于朝臣 (生年不詳-940年)

解釈
冬になって山里からは人がいなくなり、草木も枯れてしまいとても物寂しい。他意はないそのままの歌だと思う。
天皇の孫でありながら臣籍に下り、出世出来なかった男が詠んだということも踏まえて、静まり返った里や冷たい風が吹く冬の寒さが伝わってくるような気がする。


第29番
心あてに 折らばや折らむ 初霜の
おきまどはせる 白菊の花
 
現代語訳
占うように 折ってみよう
初霜なのか 白菊の花か

作者
凡河内躬恒 (859年-925年)

解釈
あてずっぽうに折るなら折ってみようか、初霜か白菊かどちらなのかを当てるために。
という一見冬の幻想的な歌に受け取れるけど、正岡子規からは「初霜ごときで白菊が見えなくなるわけねーだろ。こんなの嘘に違いねえ」と酷評されているちょっと可哀想な歌。
でもこの歌は美しいからそれでいいと思う。写実的なものも嫌いじゃないけど、でもこの歌はそうある必要がなかったというだけで、(聞き手にとっては)幻想的でありながら情景も思い浮かぶという形できちんと完成してあるから。


第30番
有明の つれなく見えし 別れより
暁ばかり 憂きものはなし
 
現代語訳
明け方の月は冷たく 辛い別れの上に浮かんでいた
あの日からというもの 暁ほど悲しいものはない

作者
壬生忠岑 (860年-920年)

解釈
冷たいのが月だけなのか、それとも女性もなのかで歌の意味が随分と変わってくる。
月だけなら愛しい人との寂しい別れのときに空には明け方の月が浮かんでいたという歌になって、女性も冷たいということになると、せっかく会いに行ったのに冷たくあしらわれ、その帰り道に先ほどの出来事を思い出しながら、何の温もりもくれずに冷たく浮かぶ月を見ているといった歌になる。
後者ということになると他の歌とは一線を画する歌になるけど実際はどうだろう。


この時代○○と交際していたみたいな人が複数出てきて面倒だなと感じていたら、形こそ違うけどそういえば現代も恋愛に関しては自由だということを思い出した。(キリスト教的価値観が輸入される前の日本は性に関してとてもオープン)
秋の歌を読んでいると綺麗な紅葉が見たくなる。もうほとんど春になってしまったから今は遠い季節だけど。

書き終われば訂正したくなってきりがないだろうから、とりあえず全部書いてからどうしても気になるとこは変えるという風にしよう。


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