第41番
壬生忠見 (生没年不詳)
恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり
人知れずこそ 思ひ初めしか
現代語訳
恋をする 噂はすぐに 広まった
密かに想い 始めたばかりで
【解説・鑑賞】
「忍ぶ恋」を題に平兼盛と競い、敗れてしまった方の壬生忠見。父親である壬生忠岑と同じく三十六歌仙の一人。
一人でこっそり始めたばかりの片想いがもうバレてしまい皆の噂になってしまった、という内容だが、現代の大人が共感するのは少し難しい。まるで小学生の恋みたいだから。「忠見ってあの子のこと好きらしいぜ!」ってな具合に。
だが恋愛に全力を尽くしていた平安時代の淡い恋心ではある。もし顔に出て露呈してしまったなら、しのぶれど色に出で~とセットのような歌にも思える。
第42番
清原元輔 (908年-990年)
契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波越さじとは
現代語訳
約束を 覚えてますか お互いに 涙を流し
どの波も 末の松山 越さないように
二人とも 心変わりは 決してないと 誓った愛を
【解説・鑑賞】
末の松山は宮城県多賀城市の海岸にある山のこと。末の松山を波が越えることは絶対にない=不変の愛という意味で、要は相手が約束・誓いを破ったことを示唆している。
着物の袖を絞らなければいけないほど二人で大泣きして愛を誓い合ったのに、女性の方は心変わりしてしまった。だが男性の方は今も想い続けていて胸が張り裂けそうなほど辛いという心情。
こうやって男性が想い続けていても、女性の方は切り替えて(上書きして)もう他の男性とイチャついていたりするのかもしれない。
この未練たっぷりの歌を詠んだのは清少納言の父親である清原元輔。ひょうきんなハゲだったらしいが、歌は巨匠レベル。(娘には歌の上手さはそこまで遺伝していない)
第43番
権中納言敦忠 (906年-943年)
あひ見ての のちの心に くらぶれば
昔は物を 思はざりけり
現代語訳
結ばれた 後の気持ちと 比べれば
昔の悩みは 無いに等しい
【解説・鑑賞】
出逢って、体を重ねて、これ以上にないほど親密な関係になれたからこそ、本当は自分はどう想われているのか、相手が今誰と何をしているのか、と新たな悩みや不安が尽きなくなった。
こんな心苦しい状態に比べたら、逢えない苦しみなんて存在すらしなかった知り合う前や、初めて会ったら何を話そうだとか、好きになってもらえるだろうか、なんて悩みはほんの些細なことだったと気付き、昔は物を思はざりけり=悩みなんてなかったようなものだ、と。
完全に後朝の歌だけど、現代人でも共感できる歌だと思う。
38歳で亡くなった藤原敦忠は美しい容姿を持ち、和歌や管弦の才能もあったようで、数多くの女流歌人との贈答歌が残されている。
こういった歌を贈られる女性の(たまらない)気持ちも想像できただろうし、女(心)の扱いが上手い男だったに違いない。
第44番
中納言朝忠 (910年-967年)
あふことの たえてしなくは なかなかに
人をも身をも 恨みざらまし
現代語訳
もう二度と 会わないのなら 楽だろう
自分も人も 恨みはしない
【解説・鑑賞】
かえって相手が亡くなっていたり、絶対に会わないような距離にいるなら、抱くことのない感情。だが一瞬でもすれ違ったり、どうしても会話を交わさないといけない環境であれば、相手との過去を思い出したり、今の関係性に苦しい想いをすることがある。
そのどうしようもない状況で心が乱れるから、相手のことが嫌になったり、未だにそんな風に苦しむ自分に対しても嫌気が差したりする、といった歌かな。
おそらく恋愛相手に対してだろうけど、それ以外の関係でも、当てはまらなくはない感情。家族でも、友人でも、同僚でも。
藤原朝忠は、逢坂山のツルで相手を引き寄せたい藤原定方の五男で、三十六歌仙の一人。
第45番
謙徳公 (924年-972年)
あはれとも いふべき人は 思ほえで
身のいたづらに なりぬべきかな
現代語訳
哀れだと 言う人すらも いないから
私は虚しく 死んでゆくだろう
【解説・鑑賞】
失恋をして辛い想いをしているというのに誰も同情してくれないから(可哀想に…と言ってくれそうな人も思い浮かばないから)、もう自分なんてこのまま寂しい最期を迎えるんだろうな…という自暴自棄であり、失恋に酔いまくりな歌。
こういう歌を詠むのなら孤独が似合う男であってほしいけど、似合わなければなかなかにみっともない。まあ結局は容姿かな。
謙徳公というのは藤原伊尹(ふじわらの これただ/これまさ)のこと。摂政だった彼が亡くなる頃にはもう藤原家全盛期を築いた藤原道長は誕生している。息子は藤原義孝。
第46番
曽禰好忠 (生没年不詳)
由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え
ゆくへも知らぬ 恋の道かな
現代語訳
由良川で 櫂を落とした 船頭に
似た我が恋路 どこへ向かうか
【解説・鑑賞】
由良は現在の京都府宮津市を流れる由良川の河口で、門(と)は川と海の境目の水流が激しい場所。かぢは櫂やオールのような道具。流れの激しい河口でオールを失くしてしまえば、もはや流されるがままで自分ではどうすることもできない。そんな風に自分の恋路も行く末がわからず不安だ、という歌。
曽禰好忠はやたらとプライドが高かったようで、その難ある性格で社交界からは孤立した存在だったらしい。だが百人一首の原型とも言える「百首歌」を創始したのは彼。功績は大きい。
第47番
恵慶法師 (生没年不詳)
八重むぐら しげれる宿の さびしきに
人こそ見えね 秋は来にけり
現代語訳
幾重にも 草生い茂る 寂びた家
人は来ないが 秋が訪ねる
【解説・鑑賞】
住む人がいなくなりつる草は伸び放題で荒れ果てた家。そんな場所に人が訪れることはないけれど、それでも秋は変わらずやって来る。
そんな寂れた場所を少し遠くから眺めているような光景が思い浮かぶ。秋の風も吹いているだろうか。
詠まれているのは河原院。源融が造園した大きな庭園のある豪邸だったが、火災等もあり、この時期にはもう荒廃していたらしい。
恵慶法師の出自や経歴は不明。若い僧に講義を行う講師だったということしかわかっていない。
第48番
源重之 (生年不詳-1000年)
風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ
くだけて物を 思ふころかな
現代語訳
風強く 岩に打ち寄せ 散る波と
私だけがただ壊れていく
【解説・鑑賞】
好きになった方が負けという言葉があるように、片想いをしていて辛いのはもちろん自分の方。激しい風によって波が岩にぶつかっても岩はびくともせず波だけが飛び散るだけ。
そんな風に相手はつれない態度で何も気にしていないのに、自分はひたすら苦しい想いを抱え続けていて、砕け散るのは自分の方だけ、という歌。
源重之は三十六歌仙の一人。上の句で例えを出すのは常套手段だが、荒れる海や波という写実的な光景と自分の破滅的な心情がしっかりリンクしているのはお見事。まさに情景。
第49番
大中臣能宣 (921年-991年)
みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え
昼は消えつつ 物をこそ思へ
現代語訳
宮中の 御門を守る 兵士が焚く 篝火に似た 我が恋は
夜燃え上がり 昼は消え入る 想いに悩む
【解説・鑑賞】
御垣守は宮中の門を警護する人のこと。もちろん街灯はない時代なので、夜は衛士達によってかがり火が焚かれるが、日中は必要がないので消される。
そのかがり火に例えたのは自分の恋心。共寝している夜は熱く燃え上がるけど、昼間は逢えない辛さで火が消え入るように沈んでしまう、という内容。
他に一切灯りのない暗闇の中で燃えているかがり火はきっと幻想的で、恋に例えたくなるほど炎も揺らめくのではないかと思う。
大中臣能宣は三十六歌仙や梨壺の五人の一人に数えられ、和歌の実力は申し分なかったようだけど、この歌自体は彼の作品ではないという説が有力。
第50番
藤原義孝 (954年-974年)
君がため 惜しからざりし 命さへ
長くもがなと 思ひけるかな
現代語訳
君のため 惜しくはなかった 命さえ
生きていたいと 今は思える
【解説・鑑賞】
君に会うためなら、君と一緒になるためなら、死んだっていいというほどに恋焦がれていた想いが実り、これからは、この先ずっと一緒にいたいから、決して離れたくないから、命が長く続いてほしいと思うようになった、という新たな心境。
この心の変化を詠んだ後朝の歌が個人的に百人一首の中で最も好き。この歌をなんとなく現代語に訳してみたことで、こうして百人一首のすべてを訳してみようというきっかけにもなった。
この歌が好きな理由は、背景がとても切ないというのも関係していると思う。
歌のように長い間想い続けていた相手と一緒になれて、生きる喜びにも出会えたであろう作者、藤原義孝は実は21歳の若さで亡くなっている。
当時流行していた疱瘡が死因とされているけど、あまりにも早すぎる死(彼の兄も同日に亡くなっている)。美男だったらしくおそらく女性からの人気もあっただろうが、本人は仏教に熱心でとても純粋な青年だったのではないかと想像する。
そんな青年の長く生きたいという想いは叶わず早世してしまったという背景も含めて、この歌にはとてつもない魅力を感じる。
これで半分終了。まだまだ先は長いけど、とりあえずこの上にある第50番にたどり着けて嬉しい。