高野山町石道

8月14日。

午前4時に起きれば5時半前に出発することも可能という証明。旅先の朝は爽やか。大変な一日にはなるだろうけど。

昨日はレンタサイクルで駆け抜けただけの紀州九度山の町並みをじっくり目にしながら、再び慈尊院へと向かう。

25度。この時間はまだ不快さはない。ただ気温は徐々に上がっていくことが確定している。

こちらは明治生まれの政治家の生家、松山常次郎記念館。

また九度山を訪れる日があるのなら今度は真田庵等にも行きたい。

世界遺産を歩いて世界遺産を目指す日。

当然丹生川からは人の姿は消えていたし、町ですれ違ったのも数人。まだ5時半だからね。ランニングのおっちゃんとは元気に挨拶を交わしたけど。

旅の道連れは篠栗遍路も歩いたゆきちゃん。この手の旅は初めてらしく「もうちょっと荷物減らせたかも」とのこと。まあ、誰でも最初はそうだ。おまけに昨晩はあまり眠れなかったらしいが、登るしかない。

慈尊院の静かな境内に佇む伽藍。

では歩かせてもらおう。高野参詣道町石道を。千年以上前から続く信仰の道。

白黒の犬はいないけどね。

二つめの百七十九町石は丹生官省符神社を出てすぐ右に。一つずつ数字を減らしていく。

最初のトラブルは持ってきていた虫除けスプレーがすぐに切れてしまったこと。もう少し残ってると思っていたのに。山林へと入る前に使用してその場で後悔した。

木々の陰でサングラスでは暗く感じる箇所も少なくなかった。直射日光を軽減できるという意味ではありがたさしかない。

大門は高野山の入口にある総門・大楼門のこと。自分にとって8年ぶりとなる高野山を目指していく。

池で釣りをする男性の姿が見えて、山からは狩猟であろう銃声が聞こえ続けていた。

柿の葉寿司も有名な九度山だけあって柿の木だらけ。道の駅の名前も柿の郷だったしな。

改めて説明しておくと、町石道(ちょういしみち)は山麓の慈尊院から山上の壇上伽藍・根本大塔へと上っていく参詣道で、弘法大師が切り開いていった歴史がある。二十数キロの距離があり、その後開拓されたルートに比べれば決して最短の道ではないが、空海が進んでいった道として最も重要な意味を持ち、高野山への表参道とも呼ばれている。
現在は鉄道、ケーブルカー、バスと乗り継いだり、あるいは自家用車でアクセスする人が大多数だが、この道をいつかは歩いてみたかった。というのも、前回四国遍路の際は交通機関を使ってしまったので、今回篠栗遍路のお礼参りという形で歩けることをとても楽しみにしていた。やはり遍路の後は高野山へ来ないとね。

町石は平安時代は木製の卒塔婆だったらしいが当然風雨で朽ちていくため、鎌倉時代に石造りの五輪塔型へと建て替えられたらしい。高さは基本3メートルには届かないくらい。

それぞれの石には距離(町石)の他に、密教の梵字や寄進者の名前、立年月日などが彫られていて、(大塔から奥の院までのも含めて)全216基の中の179基が当時のまま現存している。
町石自体が一つの仏を表しているとも言われ、その歴史を感じられるのは大きな喜びだが、正直に言うと古すぎて文字を読み取るのも一苦労な町石は少なくなかった。そこに何も問題はないけれど。

クマが出没するのは困る。宿の案内では遭遇した人はいないらしいが。ずっと聞こえ続けている銃声の主は何を撃っているのだろう。おそらく鹿か猪だろうけど。

石道展望台付近でまさかの雲海に出会った。もう汗だくだが美しい朝だ。

わかりづらいがスプリンクラーが水を撒いていた。自動だろうか。この辺りは一面みかん畑で実に和歌山らしかった。

6時半頃、展望台で小休憩。先はまだまだまだまだ長い。

みかんや柿の時期には無人販売されるのだろうか。ちなみにこの辺りの道路の名前は紀の川フルーツライン。

鳥にとっては食べ放題も同然か。

もう数百メートルは上がってきた。町石道は平坦な区間もあるらしいが、アップダウンを含めれば高低差は余裕で1000mを超えてくる。


銭壺石。要は給料平等鷲掴みコーナー。

ここまで順調かと思いきや、蚊と蜂だか虻だかがずっと付いてきていて、それがまあうるさくて目障り耳障りだった。悔やまれる虫除けスプレー。前世はストーカーなのではないかというほどもうずっっっっっっと付いてきてたからね。夏を選んだのも(ゆきちゃんのお盆休みに合わせた)黒い服を着てるのも我々なんですけども。

町石道はハイキングコースのような道と書かれていたりもするけど、山ってやたらとマウント取る人間が多いから、たとえキツい道だったとしても「え?どうだったか?あ、あんなのハイキングと一緒だよ…!」って答えてる人が絶対いる。んで10kg前後のバックパックを背負っているとどんな坂だろうと余裕にはならない。ええ、そういうことです。朝からハードな登りもありました。

並んでいる石は新旧の町石だったり、慈尊院から一里ごとに置かれている里石だったり様々。

左は雨引山山頂への分岐。岩を削っていたり、苔生している箇所も多かったので前日や当日が雨じゃなくてよかったと強く思った。雨だったなら中止も検討すべきなほどに危険だったはず。台風等危惧していたことが起こらなかったのも幸運だった。

大正末期まで弘法大師の入定日に人々が歩いて高野山を目指していたらしく、この場所は接待場だったそうな。

時折登りづらいところもあったが、この辺りは整備も行き届いていて綺麗な道だった。見かける人は0。小さな蛇は稀に現れる。

7時40分過ぎに、六本杉から町石道(百三十六町付近)を外れて、丹生都比売神社の方へ。

三谷坂という急な坂を下る。下りの方が疲れる。

天野という田園風景が広がる集落が見えてきた。

8時10分頃に目的の神社に到着。

こちらも世界遺産の丹生都比売神社。空海が金剛峯寺を建立する際に神領を寄進したらしく、またかねてより高野山前に参拝する人も多く、高野山とは深い関係にある神社。高野山総鎮守・紀伊国一の宮。

輪橋(太鼓橋)は淀殿寄進。


御朱印を貰いたかったが社務所が開く8時45分にはまだ時間があったので境内のベンチでのんびり休憩を取ることにした。神職の方々から挨拶をしてもらったが、白衣を着て他も登山の格好なので町石道を歩いていることは一目瞭然だろう。

時間になって御朱印を書いてもらっている間に、可愛くて買ったみちびき犬おみくじ。

お尻の方に入っていた大吉。(入れたはずなのに)なぜか見つからなかったリップクリームという名の失物は自宅の床に転がっていた。そりゃ出がたしだ。

町石道から外れて寄り道したかいのあるとても美しい神社だった。境内の雰囲気も楼門や本殿といった社殿の建築美も存分に感じられた。

一時間程休憩して再出発。ほとんどお店がない道中で、この集落には飲食店(+廃校を改装した宿泊施設等)がいくつかあるのでチェックしていたが、時間がまだ早いし、曜日休みにも当たっていたりと、開いているお店を見かけることはなかった。

集落の先から八町坂を登り、二ツ鳥居を経て町石道へと戻る。

登り坂の序盤には優雅な田舎暮らしを感じさせる民家がいくつか建っていた。

こちらは蕎麦店「あまの凡愚」アトリエのような雰囲気だ。

中納言の局の墓と考えられている院の墓。残念ながら寄れなかったが、彼女と交流があった西行のお堂(西行堂)も付近にある。

気温も上がってきた中で、言葉を失ってしまうほどひたすら登りが続く八町坂を上っていった。いや、本当にキツかったこの坂は。

数十分登り続けて、随分と体力を消費して、二ツ鳥居へ到着。

たまらず東屋で休憩。

紀伊山地の山間にあるこの里は何十年と風景が変わっていなさそうだ。まだ日本人の原風景と呼んでもいいだろうか。

さて、再出発しよう。町石道には復帰できたのでしばらく平坦なはずだ。

え…?ええ…?

大失態に気づいた。どうやらこの先の町石道は通行止めらしい。過去の大雨・土砂崩れで通行止めの区間があるのは知っていたが、神社で迂回している間の区間だと完全に勘違いしていた。
せっかく苦労して登ってきた八町坂をそのまま下りて、違う場所からまた登らないといけないようだ。

困惑した後にしばし立ち尽くしてどうすべきかを考えた。通行止めとはいえ道は元々続いているのだから少し頑張れば進めるのではないか…?こんなにも苦労して登ってきた難所をそのまま下りるなんてあまりに酷すぎないか…?と。
だが、女の子を連れているわけで危険があるといけないし、結局今登ってきたばかりの八町坂を下りることにした。というかそれしか選択肢がなかった。
もっとちゃんと調べていれば…という後悔と同行者への申し訳なさでしばらく苦しさが続いた。
それから程なくして自治体への疑問も湧いた。土地勘のない人も多く訪れる参詣道の案内としてどうなのかなと。できれば登る前に、下にもわかりやすい注意書きが欲しかった。「この上の区間は通行止めとなっています」と一言でいいから。通行止めがあるのなら注意書きもあるだろうと甘く考えていた自分の責任だが、注意書きが登った先にしかないのはちょっと意地悪すぎないかな。恨まれることでもしたかな。
一時間近くの時間の損失以上に、体力や精神的な疲労がどっと押し寄せてきた。

そしてこれが下にあった案内。いや、酷いよ。神田地蔵堂へは直進するのが早いとしか思えない。これだけ見て八町坂の先の町石道が通行止めになっているなんてわかるわけがない。

ここから先は町石道迂回路。かつらぎ町にとっては高野山へ向かう登山客は(先程の集落に寄らなければ)お金をまったく落とさない”良い客”ではないのだろうけど、『通行止』のたった三文字を付け足してくれるだけでよかったのにな。教育委員会さん…。

順調に進めていたのに、思いもよらぬ、心身に影響を及ばさないはずがないトラブルで、ゆきちゃんは少し足を痛そうにしだして申し訳なさしか感じないし、自分も元から痛めていた左足の付け根に少しダメージを感じた。でも迂回路を歩いていくしかない。


直進ができない分、距離はかなり余分に増えているし、ずっと上り続けているし、照り返しが強く・硬い車道を進む足取りは重かった。木陰も少なくて、当然休憩する場所もないわけで。

車道と暑さに体力を削られながらしばらく進むと、紀伊高原ゴルフクラブというゴルフ場が見えてきた。

こちらは「こんなに暑い中ゴルフをしなくてもと…」と思い、向こうは「こんなに暑い中登山をしなくても…」と思っているに違いない。

本音を言うと、千年以上前から存在する巡礼路の途中にゴルフ場を挟むのは風情が台無しで要らないなと感じた。仕方ないけどね。

神田地蔵堂はあれかな。下りる道はなく、ぐるっと回らされるみたいだけど。

近づくと音が出るこの装置が田んぼを囲む柵にいくつも設置されていて、銃声や犬の鳴き声など様々な音が仕掛けられていた。稲作への害獣対策。

地蔵堂の下にはトイレがあったが、もちろん地元の人も利用しているんだろうけど、ウォシュレットやハンドソープも完備していて、外国人登山客は驚いて腰抜かすんじゃないかと思うくらいに綺麗だった。

時刻は11時半。疲れていなければ最高の風景なんだけどね。どうしても疲労は蓄積されていくので、さっきのロスがなければもっと進めていたのにな…と考えてしまう。

町石道にはスタンプもあるらしいがスルーしているのでどんなものかはわからない。インクが切れている押印所はありそう。

気温は既に35度近く。ゆきちゃんは足だけが少し辛いみたいだが、このベンチと日陰で休憩できたのは助かった。ありがとうございました神田地蔵堂さん。

この休憩の序盤に一人の日本人女性が来て、「九度山からですか?」「結構キツいですね」といった会話を少しだけした。
休憩明けには白人のカップルとも会ったが、かなりの軽装だったので荷物を高野山に預けた状態で交通機関で下山してからトレッキングを楽しんでいたりするのかもしれない。当然肩にも疲労は感じるので、羨ましかったのは間違いない。
この日町石道を歩いていて出会った登山客はその三人だけ。時期も時期だし、もっと沢山の人と出会うものと予想していたが、キツくてリピーターも少ないのだろうか。修行っちゃ修行みたいな道だし。出会わなかった前後にいた可能性はあるけど。

とにかく体力回復に努め、50分ほど休憩に使い、栄養食も補給をして、12時20分頃に再出発。
復帰はできたが町石はまだ百十一。最後までたどり着けるのだろうかという不安がないわけではない。

エスケープルートもこの先の笠木峠から南海高野線上古沢駅へと繋がる道しかもう存在しないし。

矢印が下に向いているような疲れを13時過ぎに感じるようになった。すべては八町坂事件が原因。

ゴルフをする人たちの盛り上がる声だけでなく、鉄道や自家用車の音が聞こえてくる箇所もあったが、巡礼路はもう少し下界と遮断されているのが理想だ。仕方ないけど。仕方ないけど。

倒木もなくはない。自分たちにはもはや関係ないが、通行止めの区間も早く復旧してほしい。巡礼路を保全する仕事があるのなら従事したいくらい。

いつの間にか百を切って二桁になっていたが、まだまだ数は多い町石。

笠木峠の案内板ではこの先の道は平坦そうだったが…

この高低差。一旦油断させておいて~タイプの罠だ。

道はずっと綺麗なんだけどね。町石付近の草木もしっかり刈り取られている。


花のように見えた誰かが落としたシュシュ。

松ぼっくりはどれも小さかった印象。

七十町石。

まだ7.5kmもあるのか。結構疲労溜まってきたんだけどな。

飲んだら持ち帰りな!

道路が見えてきた。もうすぐで矢立だ。

14時10分過ぎ、はなさかドライブインにあるさぬきうどん空海はもう営業終了しているので、矢立茶屋に入ることに。地蔵堂付近で会った白人カップルはこの手前で座り込んでいたが、荷物が軽くてもキツいよねこの道は。

名物であり、(実質)唯一のメニューでもあるやきもちを注文して、冷たいお茶もいただきながら、店のおばちゃんと会話をした。

いろんな会話をしたんだけど、あの二ツ鳥居からの通行止めは実は通れた、というのを聞いた時の衝撃と複雑な感情よ。おばちゃん曰く、「あんなに迂回する必要ないのになあ、神田っていう集落を歩かせたいんかなあ」とのこと。うん、進めばよかったな。ここから残りは3分の1らしいが、あの時間と体力と精神の消耗がなければ今頃もうゴールしていたかもしれない。やってくれるぜ、かつらぎ町教育委員会。

熊の目撃情報は過去に一件だけあったらしいけど他に見た人もいないし、(行政が自己責任にするために)念のため注意書きを貼っているだけとのこと。いざ出くわしてもスマホで大きな音を出せば大丈夫!と気さくで面白いおばちゃんだった。

そのおばちゃんが見せてくれた次の迂回ルートの写真付きの説明。もう迂回はこりごりなんだけども。

でも確実に高野山は近づいている。休憩での回復力も落ちているが行くしかない。

最後の自販機補給も完了し、お店の左側を通って進んでいく。大門まであと6km。14時50分前。

雲行きが怪しくなってきたので、一応バックパックへレインカバーを装着した。

町石は六十を切ったところ。

男女のトレイルラングループとすれ違ったが、彼らのスタートとゴールがどこなのかはわからない。


袈裟掛石。弘法大師空海が袈裟を掛けて休んだと言われている石で、ここが高野山の聖域と俗世の境界「清浄結界」を表しているらしい。

くぐると長生きするという言い伝えが残っていても、今そんな余裕はない。そしてこれをくぐるのは成人男性では無理だ。

押上石。空海の母が高野山へ入山しようとした際に、空海がこの岩を押し上げて母を雷雨から守ったらしい。空海は別に超人じゃなくても好きだし、尊敬しているんだけどな。母想いの大天才としての彼を。

三十三町石。

時刻は15時を過ぎ、蒸し暑さの末、雨がぽつぽつと降り始めた。

たまに感じるんだよ、数字が増減してないか?と。

車道は高野山帰りの観光客と思われる車がひっきりなしに通過していて、この先の迂回ルートも(歩道のない)車道を歩くよう書かれていたので不安だ。徐行していない車が体の近くを通るとどうしても神経をすり減らしてストレスを感じるし。

懐かしの遍路マークと再会。

迂回前の東屋でおそらく最後の休憩を取った。最近15km以上歩くことがなかったのでここまで疲れたのは久しぶりだ。


ここか。迂回しなければならないという注意書きや案内は一切無し。歩行者なら確実に右へと進むだろう。だが茶屋の案内には左側の車道を進むと書いてあったので左へ。

ひいいぃぃぃぃぃぃ!!レクサス以外はみんな膨らんで避けてくれたけどね。

途中で崖の下を見下ろすと通行止めの看板を発見した。茶屋であの案内を見せてもらっていなければ普通にこの下の通行止めまで歩いていって、また登らされて戻る必要があったわけだ。もはや呆れるほどの不親切っぷりだ。
この辺りはもう高野町なわけだから、観光客で仰山儲けている町でもこうなら、町石道が通る地域全体の問題だ。公式HPや観光案内で町石道をアピールするのならこんな雑な仕事はやめていただきたい。役場の人間が現場を見ておらず、道を大切に想っていないからこんな事態に陥るのだろうけど、あまりに酷すぎる。 

雨は小雨が降ったり止んだりしているが、雷鳴が連続して聞こえ始めた。なんとか到着までもってほしい。

こちらは逆側の通行止め。

三十一町石。

廿(二十)八町石。

表面が鏡のように平らだという鏡石。なるほど!足首が痛くなってきたぞ…!


川の水が綺麗だったのに触りに下りていく元気がもう残っていなかった。ただただ進むしかない。

二十二町石。

150cm台の女の子の体では当たり前だけど、自分より遥かにゆきちゃんが疲れていて、励ましながらのラストスパート。

崩壊寸前の橋も多かった。役場の方々、及び関係者の方々、この歴史ある参詣道を、世界遺産を守るために、どうか動いてください。いや、放置してないでちゃんと仕事してくれ。

細くて滑落してしまいそうな道が続いていて危険だった。特にこの疲労困憊の状態では。

17時前に少雨から一気に雨脚が強くなった。

だが十四町。もう少し、あともう少しだ。

大門はすぐそこなのに、なかなかたどり着かない。一気に100メートル以上登らされる最後の試練だ。

最後はもはや嗚咽に近い声を上げていた155cmを「もう少し!もう少し!」と励まし続けて…

大門到着!!ふうううううううう!!!!ようやく着いた…。17時17分。

かつての巡礼者たちも長き道の末に大門に到着した際には同じような気分だっただろう。なんという高揚感と安堵感と解放感か。

自らの足で登ってきた紀伊山地を振り返ると夕暮れと重なったその風景があまりに美しく自然とため息が漏れた。交通機関での移動では味わえなかった感情だ。

だがしかし、高野山にようやく到着して感動していたのに、さっそく嫌なことが起きたというか、感じの悪いおっさんがいて、
どこか別のルート(おそらく弁天岳)から歩いてきたおっさん+青年の男性ペアと大門到着のタイミングが重なって、その時雨がわりと強めに降っていたんだけど、屋根付きのベンチがトイレの横に一つあるだけで他に休めるような場所がなくて、でも特に青年の方が憔悴しきっている様子ですぐにでも座りたそうだったから、自分たちもこれ以上歩けない…というほど疲れていたからベンチに座って休憩したかったんだけど、
そのベンチは譲ることにして、いくらでも踏まれていそうなほど礎石が広くて丈夫そうだったので、決して褒められた行為ではないというか、自分的にもマナーとしてどうなのかなとは思ったけど、休息を取らないことには宿にもたどり着けない緊急事態だったので端にある礎石に少し腰掛けさせてもらうことにした。

すると、トイレに向かうおっさんに青年が「座って休憩しててもいいですか?」と自分たちと同じ場所(逆側の礎石)に座ろうとして、あれ…?と思ったら、おっさんが「あっちのベンチ空いてるから座りなよ」という発言の後に、あえてこちらにもはっきりと聞こえるように声量を上げて「そ~ういうとこには座らないようにね?」と言い残し、
トイレから戻ってくると自分たち二人が正面に来るようにわざわざ移動して写真を撮っていたから、最近話題になっていた電車の優先席に座る人間が(他に空席があっても)許せずに写真で晒し上げる朝日新聞かどこかのおっさんのように、どこかで晒されていたりするのかもしれない。

こちらも自覚・罪悪感を感じつつのやむを得ない休憩だったので、疲れている状態でイライラして年下の人間に説教したくなるのもわからなくはないし、彼に怒る権利はあったと思うから、そんな陰湿なやり方じゃなくて、直接怒ってくれた方がまだよかったんだけどな…と正直感じた。
というか、こんな到着直後に不快感を覚えるイベントが発生するくらいなら、この男性ペアに配慮なんてせずベンチを譲らずに、さっさと座っておけばよかったなと後悔した。せっかく聖地にたどり着いたのにこの類の流れ下界臭すぎて。

汚れている場所に座れば白衣も汚れますわ。でも本当に疲れていたから仕方ない。

「何度もケーブルカーにしない?と言いかけた」と言うくらいゆきちゃんが疲れていたので、もう大門をゴールとしてこの先はバスかタクシーを使うしかないかなと思っていたが、休憩していたら回復したとのことでもう少し歩いて進むことに。YAMAPは止めちゃったけど。

大門の先にあったのは六町石。

初めての高野山にウキウキな人に折りたたみ傘を貸した。もう日帰り観光客は帰った時間なので町は静か。標高900m近くなので気温も心地良い。

四町。

バスはもうないか。根本大塔から奥の院へは1時間以上歩く必要があり、今の状態だとキツいだろうからもうタクシーを使ってもいいさ。

三町。もうすぐだ。

町石道の終着地点、最終目的地の根本大塔手前のファミリーマートでゆきちゃんが買い物をしている際にふと不安に駆られて、高野山のタクシー会社を調べてみたら既にどこも営業終了の時間だった。17.5までと書かれている会社に17時49分に電話してみてもあえなく撃沈。
どうしたものか…バスもタクシーもないとなるとやはり歩くしかないか…と困り果てていたら、自分以上に強くこれ以上歩きたくない女性が奥の院近くにある今日泊まるゲストハウスに電話をしてみると、まだ違う路線のバスがあるとのことだったが、そのバス停(千手院橋)は1km近く歩いた先だし、時間的にも余裕がないので、急遽速歩きで移動することに。なんとまあ盛り沢山な一日か。

残りの町石も根本大塔も今日はほぼ素通りでとにかくバス停を目指した。根本大塔がある壇上伽藍前ではちょうど18時の鐘が鳴らされていて、その鐘の音が人のいない夕焼けの高野山の町に響き渡るのは心奪われるようだったし、どこか歓迎されているような気分にもなったが。 



金剛峯寺前も無人。既に閉門しているし、宿坊に泊まっている人たちはお風呂なり食事なりでのんびりしている時間だろうしね。すれ違ったのは外国人家族数組と仕事・学校帰りの地元の方数人程。

根本大塔からは奥の院へと町石が続く。前回はまったく意識していなかったのでこんな場所にあったのかという驚きが毎回起こる。

救急車は町に二台だけで、観光客を含めるとオーバーツーリズムでとても対応しきれないというニュースは見た。

バスに乗って終点の奥の院前で下車。

久しぶりの高野山ゲストハウスKokuu。

前回は外国人スタッフが対応してくれたので日本人のオーナーとは初対面だったが、受付の時に会話をして、八町坂事件の話をすると「それは心折れるわ…不親切やなあ」と言っていた。
お遍路の菅笠などが飾ってあるゲストハウスで、彼自身町石道もたまに歩くらしいが、あの八町坂は消耗しすぎるからいつも別のところから登り下りするらしい。
うん…大変だった…。あんなトラブルがあってよく二人とも歩ききれたと思う。

まずはシャワーを浴びて、ファミリーマートで買っていたものを夕食にし、カナダ人のおばちゃんと奥の院の雰囲気について少し会話をした後に、夜の奥の院へと向かうことにした。明日の夜は多分こちら側に来る余裕がないので。

中の橋の方から参道を歩く。完全に日が落ちて夜になった奥の院は自分も初めてだ。

山の上の少し冷たい空気、虫の鳴き声、灯籠や照明に照らされる雨上がりの石畳や杉林、ほぼ無人の参道を包む雰囲気が、自分が高野山の奥の院にいることを教えてくれた。

道の両端、灯籠の向こう側は幽界のように思える空気すら感じるが、参詣道を歩いてきたから、この場所が夜の墓地ではなく、千年以上の歴史を持つ聖地なのだと肌身で感じられた。
昨日はろうそく祭りのニアミスを惜しんでいたけど、この静けさの中で歩くことは不可能だったわけだから逆に良かったのかもしれない。

当然暗くて墓石や供養塔の文字は読みづらかったのに、篠栗四国総本寺の南蔵院の文字はそこで待っていたかのように目に飛び込んできた。合わせてもそう長い旅ではなかったが、しっかりと歩いてきたこの巡礼の締めくくりだ。

御廟についてはもはや言葉は要らない。御廟橋の前はナイトツアー等でさすがに人は多かったが、皆静かにしていたので不快感を覚えたりはなかった。この場所並に神聖な場所は世界でもそうないだろう。

結果として注意情報が出ていた一週間で南海トラフ地震は起きなかった。良かった。

洗濯はお金を払うと後はサービスで、カゴにぶち込んだ状態から、翌朝乾いた状態で返してくれて、なんていうか楽だったし、ありがたかった。
初めて訪れるゲストハウスではないので写真はそんなに撮らなかったけれど、いわゆる客ガチャハズレで騒がしくてストレスが溜まったりということもなかった。カプセルの上の日本人青年も比較的静かだったし。彼の持ち物に文字の入っていない笠が見えたが遍路後だったりするのだろうか。文字が入っていれば確定だけど聞くタイミングはなかった。

町石道については、書いてきたことがほぼ全てだけど、巡礼直後など歩き慣れた状態ではなかったので、というか運動不足に近い状態だったので、体の痛みはそうでもなかったが溜まった疲労は大きかった。総歩行距離は30kmになっていたし。
行政への不満を除けば、歩ききれた、登りきれたことへの安堵が強く、町石道以外の高野参詣道も気になり始めたくらいには道自体も楽しめたと思う。
明日は、前回の高野山ではできなかった、高野山を満喫するということに重きを置いて巡る予定。まずは奥の院へのお勤めに出る。連日4時か5時起きです。


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