日本が好き

悲痛な事件が起こり、参議院選挙が行われ、何かと政治や国について考える機会が最近は多い。
現代日本において愛国心というものがタブー扱いされてるような気がしなくもないけど、僕は日本が好きです。
自分の生まれ育った国だし、素敵な場所が沢山あって、神社や着物や日本食、お祭りだとか漫画やアニメといった日本文化も好きだから。日本人スポーツ選手が海外で活躍するのも誇らしく思う。
故に、日本という国がずっと続いてほしいし、日本人が繁栄し続け、皆が幸せな暮らしを送ってほしいと願う。

でも、日本が嫌いな国や人というのは存在する。
反日運動は当然、領土を奪っていたり、奪おうとしている国は好きではない。文化までは否定しないけれど。
そして国内にも日本が嫌いな人はいる。日本嫌いな日本人は正直苦手だ。

政治を見ても、特別自民党を支持しているわけではないけど、他の野党がただの天邪鬼だったり、日本を嫌っている中国や韓国の為に活動しているような政党で溢れていて、自分の目には”まともな野党がない”と映っている。
だから、自民党に違和感を抱くようなことがあっても、自民党以外の選択肢がないので、結局支持する形になる。
同じ考えの日本人は自分以外にも少なくないと思う。岸田政権が良い働きをしているとは思えないけど、今回の参院選圧勝もそういった考えが反映されたんじゃないかな。消極的賛成というかね、いつもそうなんだろうけど。

安倍さんの死を喜んでいるような人達のほぼすべてが左翼・左寄りな政党支持者だったのは間違いない。
政治思想の前に、同じ日本人が人の死を喜んでいる姿がとても悲しかったし、耐えられないほど気分が悪くなった。
海外と違い、国を良くする為に結果として左にいるという政党・日本人がほとんど見られず、体制に反抗したいが為に、日本が嫌いな為に、そちらの思想に染まるといった流れは変えられないのだろうか。常に個人のイデオロギーとは思えない共通のアイテムを武器にしているのも目につく。
政治思想を越えて、人として大事なものを失っているような人も多く、やっぱり日本嫌いの人は好きになれない。
 

僕はお酒が飲めない

ただ単純に、お酒が飲める人は羨ましいな、飲めない人間は損でしかないよな、ってだけの話なんだけど、僕はお酒が飲めないんですよ。
もはや飲む飲まないの選択肢が生まれないほど体質的にアルコールが弱くて、ワインを数ミリ口にするだけで全身に動悸が止まらなくなるし、ストロングゼロをなぜか飲んでみたときはもう本当に死が目の前まで迫った。いや、本気で。
アレルギーと呼んでいいんだろうけど、まあ、大人になれば様々な場面でお酒を飲む場というものがあり、その度にコンプレックスを感じてきたのは間違いない。

交友関係が広がらなかったり、行ける場所が限られることは短所以外の何でもない。強制的に狭まる選択肢に何度悩んできたことか。
女性同士なら、カフェやレストランでランチを食べたりする機会も多いけど、成人男性の交流なんてほとんど夜の飲み一択だし、せっかく趣味が同じだったりしてもその先へと繋がりづらい。自分が飲めないことを知らない人の誘いにはすみません…と断る必要があるし、その理由が相手に伝わればもう飲みに誘われなくなるだけ。
飲まなくてもいいからおいでよという優しい人がいても、やっぱり飲みのテンションというものはあって申し訳なくなるし、
(ほとんどが面識のない年配の人からだけど)みんなが飲んでるのに空気の読めない奴というような目で見られたり、飲めないの?可哀想に…人生損してるよ…と同情されるのも、そりゃ愉快な気持ちになれるわけがない。

日常生活では思考すらしないからあまり感じないけど、旅先などでも困ることはある。飲み屋しかないような田舎を旅している時もそう。カミーノ中はみんなワインを飲んでるのに自分だけ水かコーラを飲むしかなかった。
バーやパブなんかも当然場違いになる。お酒が飲めていれば落とせた女の子ももちろんいただろう。

体質的に自分には無理なんだと早々に諦めたからIfの結果はわからないけど、飲めるようになる努力はしてこなかった。多分、その必要性を強くは感じなかったから。
それはきっと、子供の時から、お酒を飲む人にあまり良い印象を持っていなかったからだと思う。
両親が共にほとんど飲まない人間だったので、お酒を飲む人を見る機会なんて冠婚葬祭くらいで、そういった場にいるのは酔っ払った九州のおっさん達。
「自分の親はちゃんとしているのに、どうしてお酒を飲む人はこんなにかっこ悪いんだろう?」という疑問を幼心に感じていたのは事実。
その印象が、重りを鎖で繋がれた子象のように効いてきたような気がする。
 

親ガチャは言い訳であり真理

最近何かと「親ガチャ」という言葉が話題になっていて、親ガチャ失敗という言葉が嫌いだと発言した芸能人が叩かれたりもしているわけだけど、 
容姿や才能、コネ等に恵まれていなければ、芸能人は芸能人になれていないだろうし、そういった成功者たちが持たざる者たちから目の敵・嫉妬の標的にされるのは致し方ないかなとは思う。「恵まれてる人間は黙っとけよ」ってことなんだろうし。
でも今朝何気なく観ていたスッキリで、みちょぱに反論する加藤浩次の言葉は、ああ、この人は這い上がってきた人なんだな、とは感じた。芸能人もいろいろだ。
まあ、誰も幸せにしない言葉だとは思う。だが様々な点で核心をつく言葉でもあるのは間違いない。

ガチャに例えるから安っぽい表現になるし、けしからん!と文句をつける人がいるんだろうけど、要は生まれの格差を嘆いた言葉であって、ずっと昔から存在する社会の真理・現実ではあるんだよね。子は親を選べないという言葉と意味はそう変わらないし。
例えるなら、「一流大学を卒業し、大手企業に就職する」というところをゴールに設定して、
スタートを「東京の裕福な家庭に生まれたイケメン・美人」と「田舎の貧困家庭に生まれた不細工・ブス」に分けたら、
その二方の難易度が一緒なわけがないじゃない。そんなこと誰だって、考えなくたってわかる。

ほぼすべての人物や事柄に優劣がつけられるから、恵まれている・恵まれていないも正直際限がない。
でも明らかに恵まれていない、可哀想な人たちは存在する。
上・中・下と分類した方がわかりやすいかな。上が「恵まれている・幸福」、中が「普通」、下が「恵まれていない・不幸」といった感じで。
大抵の人間はそのまま普通なんだろうけど、下の人間は当然生きるのに苦労をする。
容姿だとか家庭だとか病気だとか障害だとか、選べない・どうしようもない部分でハンデを負い、生まれながらに苦労を強いられる人間は確実に存在している。

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