親ガチャは言い訳であり真理

最近何かと「親ガチャ」という言葉が話題になっていて、親ガチャ失敗という言葉が嫌いだと発言した芸能人が叩かれたりもしているわけだけど、 
容姿や才能、コネ等に恵まれていなければ、芸能人は芸能人になれていないだろうし、そういった成功者たちが持たざる者たちから目の敵・嫉妬の標的にされるのは致し方ないかなとは思う。「恵まれてる人間は黙っとけよ」ってことなんだろうし。
でも今朝何気なく観ていたスッキリで、みちょぱに反論する加藤浩次の言葉は、ああ、この人は這い上がってきた人なんだな、とは感じた。芸能人もいろいろだ。
まあ、誰も幸せにしない言葉だとは思う。だが様々な点で核心をつく言葉でもあるのは間違いない。

ガチャに例えるから安っぽい表現になるし、けしからん!と文句をつける人がいるんだろうけど、要は生まれの格差を嘆いた言葉であって、ずっと昔から存在する社会の真理・現実ではあるんだよね。子は親を選べないという言葉と意味はそう変わらないし。
例えるなら、「一流大学を卒業し、大手企業に就職する」というところをゴールに設定して、
スタートを「東京の裕福な家庭に生まれたイケメン・美人」と「田舎の貧困家庭に生まれた不細工・ブス」に分けたら、
その二方の難易度が一緒なわけがないじゃない。そんなこと誰だって、考えなくたってわかる。

ほぼすべての人物や事柄に優劣がつけられるから、恵まれている・恵まれていないも正直際限がない。
でも明らかに恵まれていない、可哀想な人たちは存在する。
上・中・下と分類した方がわかりやすいかな。上が「恵まれている・幸福」、中が「普通」、下が「恵まれていない・不幸」といった感じで。
大抵の人間はそのまま普通なんだろうけど、下の人間は当然生きるのに苦労をする。
容姿だとか家庭だとか病気だとか障害だとか、選べない・どうしようもない部分でハンデを負い、生まれながらに苦労を強いられる人間は確実に存在している。

まあ、具体的な(?)例を出すと、というか、よく知っている自分自身の話をすると、
いじめられていたわけでも、金銭的に行けなかったわけでもないけど、底辺数%側として、普通に高校生や大学生になることができなかった。
どう振り返っても14歳の自分には選択肢なんてなかったし、その恵まれていなかった自分の過去を武器にして、恵まれている人たちを攻撃したりもしないんだけど、でも羨ましくは思う。
恵まれてなんてなくていいから、普通でよかったから、当たり前を当たり前に過ごしてみたかったなと。
なんでほとんどの日本人が通れる道を自分は通れないんだろう。そちらの道を歩めていたら、どんな楽しい青春が過ごせただろうとか、学問ももっと深く触れることができただろうし、普通に生きれていたら、今頃幸せな家庭を築けていたりするのかなとか、まあ、気が狂いそうなほどには考えたことがある。
どうやら、社会構造の下・底辺から見れば、普通ですら恵まれていると映るらしい。いや、実際に比べれば、そうか。

だけど、この世のハンデを背負った人間すべてが、そのまま不幸な人間として終わったわけではない、という事実がある。
運が良かったり、人の何倍も努力をして、障壁を乗り越え、成功した人間はいる。
自分に置き換えても、自分の身に起こった悲しみを悲しみとして受け取らず、強靭な精神力ではね返せていれば、人生はいくらでも、どうとでもなっていただろう。
似たような境遇にいたが人生を逆転させた人がいる、という事実の前では、親ガチャに失敗しただとか、環境に恵まれなかっただとかは、そんなのは言い訳でしかない。

でも、人はそれぞれ違う。悲しみの大きさも違う。そして自分ははね返せなかった。悲しみは悲しみのままで、運命を塗り替えられる精神力も持ち合わせていなかった。
十代のほぼすべての時間や二十代前半を泣いてばかりで費やして、ようやく落ち着いて呼吸ができるようになったと思っても、そんな涙なんか必要のなかった同年代はもう立派な社会人で、配偶者や我が子を持っている人も多い。
一度でも人生に躓いたら、一度でもレールを外れたら、この現代社会では、遅れを取り戻すことは難しい。大幅に遅れてしまえばもう、同じ位置に追いつくというのは、誇張でも何でもなく、99%でもなく、100%無理だ。
それはもう、そういう仕組みだから仕方がないとしか言いようがない。恵まれていようと何だろうと、ずっと走り続けている人たちからすれば、ずっと走り続けていないのが悪いと映るだけ。
レールを外れてしまったが最後、人並みの幸せすら手に入れることは困難となる。

親ガチャなんて言葉を使うのは親不孝だ!甘えだ!といった具合に批判する人は、恵まれた環境で育ったんだろうなとは感じる。その批判が綺麗事というか、恵まれなかった人たちの現実が想像できない程度には、苦しまずに生きてきたんだろうなと。痛いところを突かれて弁明のような形で批判している人も中にはいるだろう。
だが一方で、その言葉を言い訳・免罪符に、卑屈な思考で卑屈に生き続ける人たちも好きではない。同族嫌悪に近い感情になるのかもしれないが、大抵はガチャが外れたというより、自己責任な部分が大きい人たちばかりだし。
紛争地域ではなく、今の日本に生まれただけ幸福だろ!と話の規模を広げだしたり、ベクトルを変えたり、お前は俺が持ってないあれを持ってるくせに!だとか不幸自慢を始めたら、キリがないのでその辺りについては触れないでおく。
まあ、「親ガチャ」という言葉が不快ならば、恵まれている人間は「底辺の愚痴」と見下しておけばいいし、ハズレの当事者は慰めになるのなら慰めとして使えばいい。
ただ、皮肉や攻撃ワードとして以外で、親に対して気軽に使うべき言葉ではないだろうな。もし自分が親で子どもから「親ガチャ失敗した」なんて言われたらひどく落ち込むはず。

うん、平等じゃない。平等じゃないよ。配られるカードは平等じゃない。
でも、両方の意味で言い訳には使えるけど、言い訳したところで何も変わりはしない。愚痴や妬みも役には立ってくれない。
何かを持っていないのなら、それを等価として、誰かに救ってもらうこともできない。
運命を受け入れ、覆すしかない。覆せないのなら、理不尽さに打ち勝てないのなら、そのまま底辺として、哀れに、惨めに、醜く、くたばるだけ。

僕も無抵抗ではないので、いろいろもがいてはいますが、何から何まで上手くいかないので、多分このまま底辺として死んでいくんだろうなと徐々に諦めムードにはなってます。
しかし、負けず嫌いではなく、負け犬根性で、でもこのまま死ぬのはあんまりだろ…と、今日も生きたし、明日も生きるつもりでいます。完全に諦めていないからこそ、生きているみたいなところもあるし。
もうなんか、今では、幸せになりたいとしか思ってないんだけどね。


最近この手の愚痴っぽいことばかり書いてる気がする。良くないな。
そろそろ巨乳の定義とかいっとくか…?


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