NHK『Jリーグと私』へ出演させていただいて

数ヶ月前の自分に教えても信じないと思うけど、NHK『Jリーグと私 あの試合を忘れない』へ出演させていただきました。
各Jリーグクラブと個人のサポーターが持つエピソード、忘れられない試合を紹介する番組の、シーズン2最終回・大分回の出演者として。
出演するきっかけになったのは、以前書いた「大分トリニータというクラブを愛して」という記事を、制作者の方が見つけて、気に入っていただけて、オファーを頂いたから。

その記事を簡単にまとめると、「U-15の選手としてプロサッカー選手を目指していたけど、怪我でも病気でもない理由でサッカーを辞めるしかなかった自分が、ずっと遠ざけていたホームスタジアム・ビッグアイへ13年ぶりに観戦へ行った」という内容で、取材もそのエピソードを映像化・掘り下げる形として受けることになるわけだけど、
正直、オファーを受けるかどうかは迷った。カメラの前で自分の心の傷を曝け出すことになるのはわかりきっていたし、BSの5分間の番組で何かが大きく変わるとは思えなかったから。
それに、テレビに出たい!という願望を自分は持っていないし、特に見てくれが良いわけでもなければ、アピールするものもなく、「うーん⋯テレビかあ⋯」という気持ちの方が強くて、乗り気にはなれなかった。

でも、制作者・ディレクターの方の「末宗さんが、今すぐにじゃなくても、5年後10年後にでも、出演して良かったなと思ってもらえる機会になれば」といった言葉に背中を押されたり、
地上波ほど大勢の人が観るわけではなくても、今まで自分の存在をまったく知らなかった人たちに知ってもらうきっかけにはなるだろうし、知っている人たちには生存報告になるし、
自分の中にほんの小さな変化でも起こる可能性があるのなら、それは暗闇に差し込む一筋の光明や、舞い込んできたチャンスとも呼べるのかな、と出演を決めた。
まあ、ブログをせっかく見つけてくれて「過去の自分や現実と向き合うという内容がとても素敵で心に刺さりました」と褒めてくれた方を「すみません、他あたってください」と突っぱねることに気が引けたというのはもちろんあるんだけど。

この文章は放送前に書いていて、撮影した内容のどの部分が放送され、どの部分がカットされたかはわからない状態だけど、とりあえず取材の流れを書くと、
5月9日に大分駅で取材クルーと合流して、まずはビッグアイ(現クラサスドーム大分)が見える大分スポーツ公園展望台から撮影が始まったんだけど、この日がいわゆるメイストームと呼ばれる台風並の暴風雨の日で、初っ端から髪も顔も服もぐっちゃぐちゃになって「もう映りとかどうでもいいな⋯」といきなり諦め、それからドームの外周、ドームの中へ、急遽組まれたコーチとの再会、練習グラウンドへと移動し、最後にU-15の練習風景を眺めるシーンを撮る予定で車とクラブハウスの中で待機し続けていたんだけど、あまりの悪天候と空の暗さで先程のシーンと繋がらないということで、初日は予定よりも早く帰ることになった。(結局その後、雷で練習自体中止になったらしい)
そして翌日は福岡で、(自宅は恥ずかしかったので)天神のレンタルルームでインタビューと仕事風景っぽいショットを撮影して、ミーナ天神前で街を歩くシーンを2テイク撮って、クルーと握手をして撮影終了となった。

2日間に渡って、想定していたよりも遥かに、5分といわず、15分は放送してほしいほど沢山喋ったけれど、凝縮されまくった5分間(×公共放送用のあまり攻められない編集)では、自分がなぜコーチと再会して泣いてしまったのかも、思い詰めたような表情をしているのかも、よくわからなかっただろうから、改めて自分の人生を振り返っておく。

自分は大分市から離れた宇佐市で生まれ育った人間だけど、実家から徒歩数分の距離にあった柳ヶ浦高校サッカー部・野口健太郎監督が元大分トリニティの選手で、以前は家族ぐるみに近い付き合いがあったし、その後も大分トリニティやトリニータでプレーしていた方が指導者として近くにいてくれた左利きのトップ下のサッカー少年だった。
物心つく前から、よく観戦に行っていた大分トリニータへの愛着や憧れが生まれるのも自然な環境だったと思う。
小学生の最後の大きな大会には、宇佐市と豊後高田市の選抜チームとして出るも、チームで一二を争う(現横浜F・マリノスの)松原健と自分をなぜかツートップに置いちゃったから、一回戦で1-6くらいでボロ負けするんだけど、その試合の自分のゴールを観てくれていたU-15コーチから、上記の柳ヶ浦高校監督経由で、「もう内定だからセレクション受けにおいで」というスカウトを受けた。(当時はまだU-15宇佐創設前)
その時、自分をスカウトしてくれたのが番組内で再会した首藤圭介コーチで、彼はトリニティがJリーグクラブへと成長していく上で欠かせなかった中心選手であり、現在もアカデミーサブダイレクター兼U-15宇佐監督としてトリニータに残っている方。
(もしかしたらその試合を観に来ていたのは長谷監督かもしれないけど、どちらにしろ皆トリニティの元選手。中学1年時の担当だった梶原コーチも、トレセンでお世話になった向角治郎先生も)

中学2年の時点で全国的に有名な選手にはなれていなかったけれど、それなりに期待してくれている指導者がいるのは少年ながら感じていた。
人づてに聞いた話なので真相はわからないが「あいつが一番プロに近かった」と言ってくれるコーチもいたらしいし。
最近知ったデータだが、大分県は人口比で最もJリーガーを輩出している都道府県らしい。最速でJリーグへと駆け上がっていったクラブの元選手を中心として、優秀な指導者が大勢いて、選手が育ちやすい土壌なのだろう。
自分も続けていれば、プロサッカー選手になれたかもしれない。今でもそう思う。
しかし、その続きはなかった。

家庭が地獄だったから。
ほぼ毎日父親から涙も枯れるくらいまで暴力を受け、その女(前不倫相手・後継母)が横で笑いながら見ているような環境で生きていて、
幼い頃から自分が虐待を受けていることは周囲の大人も知っていたのに、見て見ぬふりで誰も助けてくれず、正直あの頃は、サッカーのことなんか考える余裕はなく、逃げ出さなければいつか殺される、もしくは自分が殺してこの状況を変えるしかない、とわりと本気で考えていた。
だが実の親を殺すことはできず、14歳のある朝に、制服を着たまま、学校に行くふりをして、故郷もトリニータも捨てた。

父親の元を離れたからといって、救いが待っていなかったのは、逃げた先にも味方・理解者がおらず、既に心が壊れてしまっていたからだと思う。
悩みはサッカーを続ける続けないではなく、人生を辞めるか辞めないかの方が遥かに大きかった。
皆が学生生活や青春を謳歌する時期を、自分はフラッシュバックと闘い、自殺衝動を抑え続ける日々として過ごした。狂いそうなほど涙を流すことと、死なないことに精一杯で、他に余裕などまったくなかった。

そして時が経つにつれ、心の苦しみは、自分の過去の選択への後悔に変わっていった。
元チームメイトがプロサッカー選手になったり、幼馴染のような存在が世代別日本代表としてワールドカップに出場し、テレビに映る姿を見かけた際に生まれた「自分が虐待を受け入れていれば、幼い頃からの夢は叶ったかもしれない」という葛藤は十代の少年の心を粉々に砕くには充分すぎる理由だった。
単なる実力不足や怪我や病気で夢を諦められた人はどんなに気楽だろうかと感じるのは、自分が自分自身の脚で夢を蹴落とした過去に気付いてしまったから。
一切の冗談も誇張も抜きに、他でもない自分自身のせいで、世界が真っ暗闇に変わってしまい、どこへ進めばいいのかがまったくわからなくなった。

その後の人生は、地獄から逃げ出す際に自分自身にかけてしまった呪縛と自責、「でもどうしようもなかったじゃないか」という慰めと「でもどうすればよかったんだ」という自問自答の繰り返しで月日が流れていったような気がする。
目に見えない傷や痛みに苦しみ続け、何度も立ち上がろうとしては失敗した時間は、他者から見れば甘えや無駄に過ごしている時間で、その時間に意味や価値が付いてくるわけでもない。
プロサッカー選手どころではなく、普通に義務教育を全うし、高校や大学に進学できた人たちが羨ましい人生まで転げ落ちた。スポーツも勉強も得意な少年だったが、自分がうずくまって進めない時間に、皆それぞれの人生を進めて、自分だけが止まったままの時の中に取り残されてしまった。
そして、子供の頃に当たり前のように大分トリニータの選手やスタジアムに憧れたように、その後の惨めな現状が当たり前のように、あれほど大好きだった大分トリニータを直視できない存在に、ビッグアイを夢の舞台から呪いの場所へと変えてしまった。

結局、地獄から逃げ出した先に迷い込んだのは真っ暗なトンネルで、その場所をずっと、少年の頃から現在も、何度も壁にぶつかりながら、さまよい続けているのかもしれない。
それでも、僅かに残る気力で、光を見つけようと、なんとか這い上がろうともがいてはみた。
YouTubeもその一つ。だがアイデア勝負で、個人の魅力を売ったチャンネルではなかったので、大手出版社に対抗などできるわけがなかった。
しかしそこで得たお金で旅に出ることはできた。
レールが突然途切れて脱線事故が起き、ひとしきり悶え苦しんだ後に、自分が繰り返し旅に出たのは、過去に囚われ続ける自分自身に新しい世界を見せてあげたかったからではないかと思う。
巡礼の旅が多かったのもきっと、その喪失と再生にすがる想いで、過去の自分の死や未来の自分の生まれ変わりを願いながら、歩き続けたんだろう。自己責任で続いていく人生の中に何かを、いや、救いを、ずっと求め続けていた。

おそらく放送されたはずだが、アルゼンチン人男性との「君のチームは何だ?」「大分トリニータ」という会話が生まれたスペイン巡礼も、救いを求めて何百kmと歩みを進めた巡礼路に違いない。
明確な救いとやらを見つけられたわけではないし、随分と時間は掛かったけれど、トリニータという自分にとって切っても切れない関係にある存在を再び見つめることができるようになったのは、何かを探し求め続けた結果、目にすることができた景色、出会った人々やその場所で過ごした時間が、自分を少しずつ変えてくれたからだと思う。もう二度と会えない人も少なくないだろうけど、本当に感謝している。

首藤コーチと再会して泣いてしまったのは、挨拶もせず突然去ってしまった自分のことを、二十年近く経った今もはっきりと覚えてくれていて、あたたかい言葉を掛けてもらったから。
約二十五年という長い指導者歴の中で、既に1000人近くは見てきたわけだから、プロまで上がれなかった子のことなんて忘れていても不思議ではないのに、一人の少年にすぎなかった自分のことを、利き足やプレースタイルまで細かく覚えてくれていた。
だがそれ故に、なおさら申し訳なかった。
語弊を恐れず言えば、後にA代表にも選出される松原健より末宗凌を選んでくれた人に対して返すべき恩は、それこそA代表に選ばれる以上の活躍なのに、
自分の現状への不甲斐なさや情けなさ、プロ・トップチームの選手として恩返しができなかった申し訳なさに涙が溢れてきた。
首藤コーチ以外にも期待を寄せてくれた、恩返しがしたかった人たちの顔が思い浮かぶけれど、それはもう叶わない。少なくとも、一番叶えたかった形では。

プレゼントしてもらった写真は中学一年生の大分ガスグラウンドでの練習日の一枚。
番組的にも過去の写真はかなり探していて、理想は中学二年時にコーチだった(現トップチーム監督の)片野坂さんと一緒に写った写真があることだったんだろうけど、
当時の下部組織・アカデミーって今のように写真を撮ることがほとんどなくて、最終学年の大きな大会も出る前に辞めちゃってるから、本気で撮られた記憶がなく、そもそも20年近く前なのでネットの海にもろくに転がっていないという状況で、
名簿やビッグアイの関係者口を通るIDパスポート用の証明写真は残っていそうだけど、さすがに中学時代の証明写真を全国放送で流されるのは抵抗があって(普通に恥ずかしすぎて)、取材交渉の途中には「それ以外の写真が残っているのなら⋯おそらく残っていないと思いますが⋯」といったやり取りもあった。
だからこそあの写真の存在には驚いた。首藤コーチ曰く、誰がいつ撮ったのかもわからないとのことだったが、きっとなんてこともない日になんとなく誰かが撮ったんだろう。
奇跡的に一枚だけ見つかったらしいが、12,3歳のガキンチョのキラキラした自分たちを見られて嬉しかった。
(実はU-15の練習風景を眺めるシーンを撮る予定だったのは過去の写真がない問題への解決策。宇佐への移動前に急遽駆けつけてくれた首藤コーチとの再会で自分が泣いちゃって撮れ高上がったから必要なくなったけど)


もはや大昔の出来事だが、大きな大会で思い出すのは、Nike Premier Cup Japan(JFAプレミアカップ)かな。
自分が大分県大会の準々決勝だかでコーナーキックを蹴った拍子になぜか剥離骨折しちゃって、決勝には怪我を押しての途中出場だったんだけど、あの試合に万全な状態で出れていれば、
全国大会で準優勝した一学年上の世代のように、九州大会も勝ち進んで、全国大会くらいは普通に行けた気がするんだけどな。
あの大会に限らず、もう少し上の景色をみんなで見たかった。強化指定選手にも選ばれていたし、地元開催の国体も一緒に出たかった。
そもそも、あのナイキプレミアカップできちんと勝っていれば、最高に愉快なあんちゃんだった梶原コーチから、パワハラに厳しい今の時代では絶対に採用されなさそうなコーチが2,3年時の担当になることはなかったかもしれないと考えると、みんなのサッカー人生も間接的に変えてしまったのかもしれない。
首藤コーチも言っていたように、(プラチナ世代の)期待の世代だったから、重要な時期をもう少し違う環境で育成されていれば、4,5人がプロになっていても決して驚きではなかった。
すまない。でもあれは、今振り返れば、運命のイタズラのような怪我だった。まさか誰も指原莉乃に勝てないなんてね。
みんな元気にやってるかな。一人美容クリニックだかの先生やってるのは知ってんだけど。それぞれ全力で夢を追いかけただろうし、別に伝えたいことなんてないけどさ、元気にやってるならそれだけで嬉しいよ。

いやー、やたらと重くなっちゃったし、長くなってしまった。困ったことに我が人生を振り返るとどうしてもこうなってしまう。なんちゃってカタルシスにでもなっていればまだいいんだけど。

とにかく、感謝を伝えたい。まずは番組を視聴してくださったり、ここまで読み進めてくださった方々に。普段の自分はハイセンスで面白い人間なんだけど、この話題になるとね。疲れる内容にお付き合いいただき本当にありがとうございました。
首藤コーチはもちろん、大分トリニータのスタッフさんにも感謝しています。突然こんな予想外の形で、かつて在籍していた一人の少年周りを調べたり探したりといった作業に追われただろうし、ご迷惑をお掛けしました。でもきっとこのシリーズの中でも、他のクラブと比較しても、なかなか濃いものが撮れたのではないかと思います。
そして取材クルーの三人。ディレクターの水野さん、自分を見つけてくださり、貴重な機会をいただけて感謝しかないです。終始真摯に対応していただけたからこそ、話せたことも沢山あったと思います。
音声さんとカメラさんも悪天候の中ありがとうございました。水野さん以外の反応によって、取材を受けたことを後悔する、更に傷付いてしまうという展開もいくらでもありえたと思うけど、お二人の人柄で楽しい時間が過ごせました。

一応2019年のクラブ創設25周年・鹿島アントラーズ戦が番組のテーマに沿った試合ではあるけど、ディレクターの水野さんも「正直この回は試合にそこまで意味はない」と笑いながら話していたように、自分とクラブの繋がりが主題となった。
はたして観てくださった方にどう映ったんだろうか。トリニータサポーターの方はもちろん、それ以外の方も、どんな風に映ったのか、何を感じたのかは気になる。
もしよろしければ、引用ポスト辺りでご感想をお聞かせいただけると嬉しいです。返信でも、DMでも、メールでも、どんな形でも大歓迎です。

うん、生まれてからずっと自分の人生が続いているように、序盤から近くにいたトリニータという存在もずっとそばにある。どれだけ遠ざけたとしても、もはやその距離は変わらないだろう。
あと何年か経てば、選手が全員年下になる日も訪れるけど、彼らが自分が叶えたくても叶えられなかった夢の上に立つ大分トリニータの選手たちであることも変わらない。
だから、もう夢を託して、ずっと応援し続けるしかないんだ。
ファン・サポーターとしての立場から抱く夢なら、J1で優勝する試合を見届けたい。ACLE、クラブワールドカップでの歓喜だっていい。ドラマチックすぎるクラブだから更にドラマチックな未来が必ず待っているだろう。なんてたって最強で最高で最愛のチームだから。
クラブがどんな状況だろうと、自分の人生に何が起ころうと、何にも変わらない。これから先も、一生応援している。


はい、長くなってしまったので、ここからは本編外ということにします。

インタビューの終わりに「何かまだ話しておきたいことはありますか?」と聞かれて「松原健について話してもいいんですけど、(放送時間的に)もう入んないですよね」と話すことはなかったが、ここに書いておこう。
宇佐市という大分県の中でも特別栄えているわけではないのに日本代表を輩出し続ける町で、同い年で二人ともサッカーをしていて、小学4年生の頃にはもうどちらも試合に出ていたから、年齢が一桁の頃から顔馴染だった。
小学校が違ったからこそ、いつもは敵同士で、選抜ではチームメイトで、まさにライバルそのもの。市内の大会の決勝カードもほとんどが柳ヶ浦FC VS. 四日市南SSCだった。
小学生の頃、健はナショナルトレセンまで選ばれたが、自分はまったくの無名。だがU-15のセレクションでは自分が受かり、健は落ちた。
自分が健に劣っていると思ったことがないように、健も凌に負けていると思ったことはないだろう。だから健がプロの選手になってくれて、A代表にまで成長してくれて嬉しかった。
高校や大学までサッカーを続けられた、夢を追いかけ続けることができたすべての人間が羨ましいのに、健のことを羨ましく、妬ましく思ったことは一度もない。ありえたかもしれない自分の姿を重ねるとすれば健以外にいないし、ずっと応援していたからね。
第三者にはリスペクトのない発言として受け取られるかもしれないが、「健がプロになれたのなら、自分だってなれただろう」という想いは苦しみであり、慰めでもあった。
だからこそ、大分トリニータの選手として、もしくは日本代表として、一緒にピッチに立てたならどんなに素敵なことだっただろうか。健が右サイドバックなら、最高のクロスを自分がゴールする瞬間があってほしかった。きっと沢山の人を喜ばせられただろう。
今は苦しい時だろうけど、マリノスが残留できることをただただ願っている。落ち込んでいる姿は一緒に負けた試合やセレクションの時に見飽きてるからね。

番組制作・撮影に関しては、クオリティもジャンルも大違いだけど、紛いなりにも自分も(以前は)動画制作を食い扶持にしてきた人間だし、撮りたい映像のイメージの共有もできていたと思うから、可能な限り良い内容に近づけるように、いくらかは協力できたんじゃないかな。
音声のお姉さんには「メディア出演とかされてました?慣れてる感じだったんで」と言われたりもしたので、そこまで迷惑も掛けずにやれたはず。
というか、ディレクターは東京の方だったんだけど、音声とカメラの二人は福岡在住で、普段観ている番組の制作にも携わっていて面白かった。
ロケ車の中でそのお姉さんと「再会でまんまと泣いちゃって⋯あれ絶対使われる」「私まで泣きそうになって涙堪えるのに必死でした。最終回にふさわしい内容だと思います」みたいな会話をしたんだけど、放送前から出演して良かったと思える瞬間だった。

言い回しだとかで、あれを選んでおけば!みたいな後悔があったり、ほとんど他の人が出る場面はないのに、183~5?くらいある首藤コーチと自撮りするシーンを撮らされたり、天神を歩いている時にやたらとスタイル良い男が現れたりしたので、「番組内の自分ってめちゃくちゃちんちくりんに映ってるのでは⋯?」とか考えたりもするんだけど、まあ、今更悔いて、恥じて、何になるよって感じだし、まあいいや。
いやでも、雨風強くて多少声張る必要があってやたらと棒読みっぽくなってたり、あのタイトルコール&自己紹介みたいなやつ、リアルタイムで自分が吹き出しそうだったし、やっぱり恥ずかしいな()
BS放送だけと思っていたけど、後にNHK総合での放送、YouTubeにもアップされて、もしかしたらドーム内でも流されるみたいだから、それなりの数の人が観ることにはなるだろう。いや、なにこれ、めっちゃ恥ずかしくなってきた。

それにしても、新たに出会う人や久しぶりに再会する人に「(職業は)何してる?」と聞かれた時に、どう答えるかが本当に難しい。
漫画のYouTubeチャンネルが成功したのは間違いないけど、もはや何年も前のことだし、自分では描いてないし。スマホで漫画を読む文化を広めた一人であり、その業界の雇用も間違いなく生んでいるんだけど、何の功績にもなっていないし。
今はYouTubeで稼いだ貯金を切り崩しながら暮らしている実質無職、輝かしいプロスポーツ選手とは対極の、ノンインフルエンサーだ。

とはいえ、YouTubeを当てて、テレビ出演に繋がるブログが書ける人間は、全国探したってそう多くはないと思うんだ。
以前から応援してくれている、気に掛け続けてくれている人からすれば「また更新頻度減らしてんな⋯」と思ってたらさ、いきなりNHK出演なわけじゃない。絶対に誰にでもできることではないでしょ。
それだけに、自分が持つ、他者にはないものを、明確な結果に結びつけないといけない。何もかもを実現はできないし、日々を切り取れば地道な積み重ねなんだろうけど、もっと頑張らないと。
やっぱり自分を応援してくれる人に「こいつ何だかんだ面白いことするな」と思わせたいし、自分が発信するコンテンツを楽しんでもらいたい。

しかしながら、目先の問題として、少年の頃から続く状況が好転したわけではないので、お金や将来のことを考えると、不安に苛まれ、過去を呪うような気持ちになるのも相変わらず。
どう頑張ったってこの何十周もの周回遅れを挽回すること、普通に生きてこられた人々に追いつくことは不可能だと諦めている気持ちもある。
自分だってプロサッカー選手になれないのなら、進学や就職、結婚や子育てと普通のライフステージを踏んでみたかった。でもそれさえできなかった、人生を強制的に奪われた、学歴も職歴もない人間はこれからどう生きればいいんだろう。
自分に何の罪があってここまで苦しまなければならない?なぜ余所の家に生まれた人間は当然のように学生でいられた?親というのは一生ものの劣等感と希死念慮しか与えてくれない最大の敵ではないのか?
結局何も変わっていないからいつも悲しくなる。ずっと真面目に、一生懸命に、生きてはいるんだけど。

どうすればいいのかはわからない。でも、いつだって終わらせられたのに、生き続けるという選択をした過去の自分を未来で肯定してあげたい。
逸れた道からもう戻れないのなら、誰も訪れない岬まで歩いていって、海を静かに眺めていたい。そんな日々を手に入れるのは難しいだろうか。
気分が晴れている日は、空が綺麗に見えて、自分は地獄から這い上がり、背負っていた業を投げ飛ばして、血反吐に塗れていた服を今着替えているところだ、と思えるような日もなくはないんだけど。
常軌を逸した頭痛持ちでもあるし、神様はなぜ我が人生をここまでハードに設定したのかと嘆きたくなる。
どなたか、哀れな私に救いの手を。もしくはAmazonで漫画買いまくってください()

どんな逆境でも這ってでも前へ進み続ける精神を含め、大分トリニータには沢山のものを与えてもらったから、何か貢献ができたらとずっと考えてはいるんだけど、この前の求人は20代じゃないからと落とされちゃったし(それが優しさかもしれないけど)、
ドーム観戦以外は、圧倒的ニータンという巨大なぬいぐるみを購入して、今回の番組でトリニータサポーター代表として出演することくらいしかできていない。
一サポーターとしては充分な気はするが、個人的な充足感にはまだ遠い。返し足りていない。何があるだろうか。

とまあ、こんな感じかな。
ブログというのは時に人との繋がりを運んできてくれるなと改めて実感する機会だった。そこから続くテレビ出演でも新たな出会いや繋がりはあるだろうか。
やっぱり何かを発信し続けることは大事だ。でも、SNS等もうちょっと反応を貰えるようになりたいな。自分の魅力や知名度が足りなさすぎるのが悪いんだけど、いいねやコメントを貰えることすら稀な弱小発信者だし()
ええ、この数奇な物語の先に何が待つのか見届けてくださる方は、よろしければフォローやシェア等、もう何でもお待ちしています。一応【リンク集】置いておきます。XInstagramだけでもフォローしていただけると跳んで喜びます。

申し訳なくなるほど長くなってしまった最後に、万感の想いを込めて、心からの感謝を。
この度は本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。


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