宗像大社沖津宮現地大祭への申し込み

Pilgrimってタイトルに入ってるわけだから別に神社に行こうが寺院に行こうが教会に行こうがモスクに行こうが不自然ではないわけで、そもそもPilgrimageありきでコンセプトを決めたブログでもないから何を書こうが問題はないだろうけど、ここでまた神社ネタを投稿します。慄け読者である君よ。
いやまあネタって言っても、沖津宮現地大祭へは行けませんという話なんだけど。

沖津宮は玄界灘にある沖ノ島のことで、そこは島全体が御神体とされていて、女人禁制だったり、男性でも年に一回抽選で選ばれた人しか上陸出来なかったりするんだけど、最近世界遺産候補(推薦決定)になったということで話題になって全国区の知名度を得たみたい。
なんか気分的にいろいろと説明するの面倒だから簡単に書くと、宗像大社という神社があって、そこはアマテラスとスサノオの誓約によって産まれた三姉妹の女神を祀っていて、長女が沖津宮(沖ノ島)に、次女が中津宮(大島)、三女が辺津宮(ここだけ九州本島)に祀られている。

でまあ、日露戦争の日本海海戦の戦勝記念と英霊の鎮魂を目的に催される現地大祭が5月27日にあって、その日だけ沖津宮に、抽選で当たった約250人(200人)の男性だけが上陸出来るから、それに応募しようと今日辺津宮に行ったんですよ。
なぜ今日行ったかというと、どこかのブログに現地大祭の応募は3月1日からと書いていたから(HP等には応募期限は載ってない)。
応募用紙には通し番号があるらしく、初日に行けば電話で応募用紙を送付してもらう人よりも絶対早く受け取れて応募出来るわけだから、少しくらい当選しやすくなるかもと淡い期待を抱き行ってみて、お参りを済ませて御朱印を書いて貰った後に巫女さんに「現地大祭の応募ってどこで出来るのですか?」と聞いたらですね。
「応募は2月いっぱいで締め切りになりました」と返ってきたよね。うん。
はい。おしまい。おひたしおひたし。

待ちわびて待ちわびて、初日に申し込もうと思っていたら、実は前日が締め切りだったというこのオチ。
応募者が増えることを予想して締め切りも早めたんだろうけどまあショックだった。
「そうなんですか、ありがとうございます…」とお礼は言ったものの内心とても凹んでました。はい。

今年ではなくても今まで行けるチャンスはあったのだからもっと早くに応募すればよかったのに躊躇っていたのは全裸で禊をするから何なのか。
とりあえず電話で問い合わせとけば良かったのに後の祭り。

まあ別に今年のチャンスを逃せばあと120年後とかそういうのではないわけだし、他にもチャンスはあるような予感がしているから、切り替えればいいんだけど、でもまあ馬鹿なことしたなあと思う。ちょっとまだ笑えない。

検索からここにたどり着く人もいるだろうから急いで書いてみました。終わり。


2017年(平成29年)の追記になるけど、今年も締め切りは2月末だったみたい。
もっと正確に書くなら、申込用紙を辺津宮社務所に送付してもらえるのが2月末までで、その申込用紙を辺津宮に届ければ選考対象になる。

多分今後しばらくは仕組みも大きく変わらないだろうから応募方法を含めた流れを簡単に書いておく。

  1. 2月末までに辺津宮社務所に申込用紙の送付希望の旨を伝えるはがきまたは返信用を入れた封筒を送る。(大社側からの指定がないからはがきも加えてるけど、切手を貼った往復用を同封するのが理想かも)
  2. 3月20日頃に届く申込用紙に氏名や応募理由等書き込んで辺津宮社務所に送る。
  3. 当選した人には4月14日頃に参拝許可証のはがきが届く。(落選した人にも通知はがきは来る)
  4. 前日の5月26日18時までに大島の中津宮で手続きを済ませ、宵宮祭や渡島安全祈願祭に参加。
  5. 当日の27日は朝7時に大島港から出発して沖津宮の現地大祭へ。お昼過ぎに解散。

だいたいこんな感じかな。少しでもお役に立てれば幸いです。以上。


追追記です。4月15日にはがき届いて、結果は、まあ、落ちてました。
自分の整理番号は620だったから倍率はそれなりに高いことはわかっていたけど、残念だし、悲しいです。ええ。
検索からこの記事にたどり着いてる人が結構沢山いるから、その中の人が当選してたなら、ってか誰かしらの何らかの役に立てたのなら、まあ、それでいいや。
見返りはなくとも人の役に立つことができるのが善人だしね…(ご乱心)


そして7月15日に追追追記。
現地大祭が中止になって、一般の上陸が全面禁止になったとのこと。
ユネスコの世界文化遺産への登録が決まって、来年は更に倍率がはね上がるだろうと思ってたら全面禁止とは驚き。遺産登録に合わせて運用を厳しくするのが理由みたいだけど、現地大祭に影響が出るとは想像していなかった。やむを得ないっちゃやむを得ないけど。

つまり、今年(2017年)の参加が一般人の最後のチャンスだったというわけですね。
この記事を読んでメールをくださった方と来年こそは…!みたいな話もしたりしてたから残念だけど、女性は最初からチャンスがないことなんかを考えると、まあ、うん。
今後の考えうる沖ノ島への上陸方法はもう宗像大社関係者になるか、著名人になって取材として行くしかなさそう。

というのが自分と現地大祭の一連の流れでした。
一度でいいから参加してその雰囲気を味わいたかったなー、参加できた方羨ましいなーというのがド直球な本音。まあ仕方ないけど。
あとはもう、ならず者たちが勝手に上陸して、遺物などが盗まれるようなことがないことを願うのみ。
うん、おしまい。

百人一首 現代語訳 11番~20番

第11番

参議篁さんぎたかむら (802年-853年)

わたの原 八十島やそしまかけて でぬと
人には告げよ あまのつり舟

現代語訳
海原に浮かぶ島々を目指した
舟出と伝えよ漁師の釣り舟

【解説・鑑賞】
参議篁こと、小野篁は詩の才能にも学問にも優れていたが、正直者すぎるがゆえに、遣唐使に選ばれても大使の藤原常嗣と揉め事を起こし乗船拒否したり、天皇の怒りを買って官位剥奪され流罪になったりと、いわゆる問題児だった人物。
後にその才能を惜しまれて、罪を赦され都に戻り、病に倒れるまで出世を続けることにはなるんだけど、彼の人生は波乱に満ちていた。地獄と繋がりがあったとも言われるくらいには。

この歌は、流罪となって、隠岐へ向かう際に詠んだ歌とされている。
今後都へ戻れる保証はこの時点ではないので、罪人として都を離れるということは、孤独で不安な舟出だっただろうし、大切な人との別れもあったに違いない。
隠岐諸島へ向かいながら、これからどうなるのかという不安や身近な人々と離れていく寂しさを抱える舟上で、強がりながら「私は望んで島へと行くのだ」と都にいる人々に告げてくれというメッセージを、どう考えても都へ何かを伝えられるすべなど持たない漁師が乗った小さな釣り舟に語りかける姿はとても悲しげで、自分の乗った舟が流刑地へと進むにつれ、その釣り舟すら遠く離れていく大海原での情景が想像できる歌になっている。 

第12番

僧正遍昭そうじょうへんじょう (816年-890年)

あまつ風 雲のかよひ 吹きとぢよ
をとめの姿 しばしとどめむ

現代語訳
天の風 雲の通り路を塞げ
乙女の舞を しばし留めよ

【解説・鑑賞】
遍昭の俗名(出家する前の名)は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。あの小野小町とも噂があった遊び人で、仁明天皇の蔵人(今でいう秘書)から出世を重ねるが、その仁明天皇の崩御を機に突如出家した。

これは新嘗祭の翌日に宮中で行われる豊明節会で詠まれた歌。儀式では五人の未婚の美女が舞を披露し、その美女たちは五節の舞姫と呼ばれていた。
舞姫を天上界に住む天女に見立て、雲の中には天上と地上を繋げる路があり、そこを天女たちが行き来すると考えられていたので、大空を吹き渡る風に、雲を吹き飛ばしてその通り路(帰り路)を閉ざしてくれ、美しく舞う乙女たちの姿をもうしばらく見ていたいから、と呼び掛けている。
紀貫之に「雰囲気は良いが現実味がない」と評された遍昭の歌だけど、裏を返せば幻想的だと受け取れなくもない。

ちなみに百人一首の作者名は基本的に最終的な名前や身分が記載されるので、この歌は出家する前に詠んだ歌みたいだし、「煩悩に負けてんぞこの生臭坊主」と責められるのは風評被害。

百人一首 現代語訳 1番~10番

カテゴリは前々から作っていたけど、和歌(百人一首)を現代語に訳していきます。
現代語訳といっても、普通の直訳文では面白くないから、韻文とまではいかなくても、なんとなくリズムを持たせることを意識して訳していこうかなと。
平安時代や鎌倉時代の古い歌の中にある古い言葉を、現代人でもわかるように置き換えていくと、どうしても5・7・5・7・7の中にある韻律や技法(修辞法)、掛詞や句切れ等は崩れてしまうんだけど、それをあまり気にせずに、場合によっては意訳を含めつつ、なんちゃって現代詩(もしくは自由律短歌)として楽しめるように、と試行錯誤してみます。
それとおまけレベルだけど、簡単な背景説明や解説も付けようかなという所存でございます。はい。

百人一首といえば、100人いれば120人は小倉百人一首を思い浮かべると思うけど、その小倉百人一首です。
一応説明しておくと、小倉百人一首は京都の小倉山の山荘で公家の藤原定家(ふじわらの さだいえ/ていか)が鎌倉時代初期に選んだ詞華集で、飛鳥時代から鎌倉時代までの百人の優れた歌人の和歌が一首ずつ選ばれている。
選者の藤原定家自身も歌人であり、若い頃は「新古今和歌集」や「新勅撰和歌集」の編纂に携わったり、先日僕も歩いた熊野への後鳥羽天皇の行幸に随行した際の「熊野御幸記」が国宝になっていたりと文化面において様々な活躍をした人物。
美への並々ならぬ執念を持っていたようで、この百人一首は彼の好んだ恋と秋の歌が多いのが特徴。その2種類の歌だけで半分以上になるほどには。

一千年近くも昔の歌ばかりだから、より理解しやすくするために時代背景等色々と説明すべきかなと思うけど、説明すべき点が多過ぎてキリがないので二点だけ。

まずは、和歌を詠むということがいかに重要な意味を持っていたか。
男であれ女であれ、当時は和歌が作れるというのが素養の一つで、それ故多くの場面で自然と詠まれてきた。
出会いの喜びや別れの悲しみ、月を見て綺麗だと思ったとき、四季折々の情景に浮かぶ感情。今では信じられないが、異性へ求愛する際も和歌が用いられて、ありとあらゆる心を詩で表現するという美しい時代があった。
和歌だけでなく、楽器を演奏したり、花見や月見をしたりと、昔の日本人(特に平安貴族)の風流っぷりは実に美しく、華やかだ。

そして、後朝について。
平安時代の恋愛スタイルはいわゆる通い婚。夜になると男性が女性の元へと通い、それぞれ着ていた衣を重ねて共寝して、まだ暗い早朝には帰るというのが一般的だった。
その一夜を共に過ごし、重なり合っていた衣と衣が別れの際に別々になる様を衣衣(きぬぎぬ)と言い、そこから翌朝の別れのことを後朝(読みは同じきぬぎぬ)と呼ぶようになった。
その後朝の後に「後朝の文」または「後朝の歌」として手紙や歌を送り届け、相手への想いを伝えるというしきたりの中で、多くの名歌が生まれ、百人一首の中にもいくつも選ばれている。
現代とは違う、恋人同士でさえ自由に逢うことができない時代。太陽の下でのデートも、同棲もできないし、もちろん携帯だってない。
一緒に過ごした夜が明けてしまう前の空に浮かぶ有明の月を眺める、これからの会えない時間に胸が張り裂けそうになりながら帰路に就く男性がいれば、愛する人が去った部屋であの人はまた自分に逢いに来てくれるだろうかと不安に駆られる女性もいた。
そうした今とはまったく違う男女の在り方を想像してみると(それでも恋しい相手を想う気持ちは時代を越えて共感できる)恋の歌が多い百人一首をより一層楽しめるかもしれない。

とまあ、そんな感じです。それでは10首ごとに10回に分けて訳していきます。古の雅に負けぬよう。

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